(PP. 77-78)
五〇万年近く前のある日、現在のイングランド南部ボックスグロウヴ村の近くで、六、七人の化石人類が、おそらく木の槍で仕留めたばかりの、野生の馬の死骸を囲んで座っていた (PP. 80-81)
~~。進化上の変化は、種の中で習性の変化が起きることによってではなく、ある種から分かれた種がもとの種に取って代わることで起きる。人類の歴史の物語で何が意外かと言えば、それは、アシュール文化のハンドアックスが気の遠くなるほど長い間、変化しなかったことではなく、その停滞状態に終止符が打たれたことなのだ。 (PP. 88-92)
~~。もし遺伝的な変化が人間の新しい習性を引き起こしたのなら、その影響が異なる場所で異なる時代に徐々に不規則に現われ、いったん定着すると一気に加速するのはなぜか? 新しい遺伝子の影響がオーストラリアではヨーロッパよりゆっくり現われることなど、なぜありうるのか? 二〇万年前以降の人間のテクノロジーの現代化をどう説明しようと、その現代化は自分自身を糧[かて]にして加速するもの、自己触媒的なものでなくてはならない。 (P. 101)
物々交換こそ世界を変えた芸当だった。 (PP. 106-108)
この間、新しいテクノロジーの流れが勢いを増していた。四万五〇〇〇年前ころから、ユーラシア西部の人びとは、しだいに道具を改革していった。~~。 (PP. 123-124)
~~。人間の文化の進歩は、集団的な事業であり、濃密な集団的頭脳を必要とする。 (PP. 185-187)
~~。コムギ畑を最初につくった人は、どうやって「これは私のものだ。収穫してよいのは私だけだ」と主張するかという難題に直面したに違いない。最初の私有財産のしるしは、八〇〇〇年前、シリアとトルコの境に住んでいたハラーフ文化の人びとによる印章だ
原 注 第2章 |
3. |
Potts, M. and Roberts, M. 1998. Fairweather Eden. Arrow Books. |
6. |
話を単純にするために、およそ 150 万年前から 30 万年前までの間に生きていたヒト科の動物のあらゆる種を、この期間のヒト科の動物を指す、最も伝統があって最も包括的な名称にならい、「直立したヒト科の動物[エレクトゥス・ホミニド]」と呼ぶことにする。現在、このカテゴリーには以下の四つの種を含めるのが一般的だ。アフリカ最古のホモ・エルガステル、少しあとにアジアに出現したホモ・エレクトゥス、アフリカから出てのちにヨーロッパに入ったホモ・ハイデルベルゲンシス、そしてその子孫、ホモ・ネアンデルターレンシスだ。Foley, R.A. and Lahr, M.M. 2003. On stony ground: Lithic technology, human evolution, and the emergence of culture. Evolutionary Anthropology 12: 109-22 を参照のこと。 |
7. |
Richerson, P. and Boyd, R. 2005. Not by Genes Alone. Chicago University Press の以下の言葉を参照のこと。「アシュール文化の両面加工のハンドアックスは完全に文化的なものではなく生得的な制約を受けている。時を経てもデザインが安定しているのは遺伝的に伝わる何らかの心理的要素が原因であるという仮説を考えてみる必要があるのかもしれない」 |
23. |
この段落と前の段落のアダム・スミスの言葉は、ともに The Wealth of Nations (1776), book 1, part 2〔『国富論:国の豊かさの本質と原因についての研究』、山岡洋一訳、日本経済新聞出版社、2007 年、他〕より。 |
24. |
Shennan, S. 2002. Genes, Memes and Human History. Thames & Hudson. に引用された Rowland and Warnier の言及。 |
25. |
Brosnan, S.F., Grady, M.F., Lambeth, S.P., Schapiro, S.J. and Beran, M.J. 2008. Chimpanzee autarky. PLOS ONE 3 (1): e1518. doi: 10.1371/journal.pone.0001518. |
26. |
Chen, M.K. and Hauser, M. 2006. How basic are behavioral biases? Evidence from capuchin monkey trading behavior. Journal of Political Economy 114: 517-37. |
44. |
Wells, H.G. 1902. ‘The Discovery of the Future’. Lecture at the Royal Institution, 24 January 1902, published in Nature 65: 326-31. The Literary Executors of the Estate of H.G. Wells の代理 AP Watt Ltd の許可を得て転用。 |
45. |
O’Connell, J.F. and Allen, J. 2007. Pre-LGM Sahul (Pleistocene Australia-New Guinea) and the archaeology of Early Modern Humans. In Mellars, P., Boyle, K., Bar-Yosef, O. et al., Rethinking the Human Revolution, Cambridge: McDonald Institute for Archaeological Research, pp. 395-410. |
55. |
Ofek, H. 2001. Second Nature: Economic Origins of Human Evolution. Cambridge University Press. |
56. |
Stringer. C. 2006. Homo Britannicus. Penguin.「ネアンデルタール人の石器はほぼすべて、彼らの遺跡から徒歩で 1 時間以内の範囲に由来する原料で作られていたのに対して、クロマニョン人はずっと移動能力が高かったか、あるいは、何百キロメートルにもおよぶ範囲を網羅した、資源を得るための交換ネットワークを持っていたかのどちらかだろう」 |
76. |
Simon, J. 1996. The Ultimate Resource 2. Princeton University Press. |
原 注 第4章 |
24. |
http://www.tellhalaf-projekt.de/de/tellhalaf/tellhalaf.htm. |
25. |
Ofek, H. 2001. Second Nature: Economic Origins of Human Evolution. Cambridge University Press. |
26. |
Richerson, P.J. and Boyd, R. 2007. The evolution of free-enterprise values. In Zak, P. (ed.) 2008. Moral Markets. Princeton University Press. |
(PP. 94-95)
(PP. 96-97)
(PP. 104-105)
(PP. 126-127)
(P. 24)
人類の過去の中でも最近の一万年を〈歴史〉と呼ぶことにしよう。~~。歴史がある時点で生じたのはなぜか? なぜ全てが過去一万年の間に集中したのか? (PP. 25-26)
~~。一番目に重要な点は、過去一万年間 ―― 地質学者が〈完新世〉と呼ぶ時代 ―― は著しく温暖な気候下にあったということである。地質学上の時代区分で、完新世の前の時代である更新世後期にそれと比較し得る時期を見つけるには、約一二万年前のイーミアン間氷期にまでさかのぼらなければならないだろう。実際このことが過去一〇〇万年間の傾向をはっきりと示している。つまり、比較的短く暖かな時代が大体一〇万年周期で繰り返されていた。二番目に重要な点は、完新世はさらなる特権を享受していた ―― すなわち、並外れて気候が安定していたという点である。~~。過去一〇万年もの間、このような時代はなかったし、現生人類が存在していたと考えられている時代の大半は完新世である。 (PP. 32-34)
~~。遺伝学の重要な研究が一九八〇年代に始まり、これまでのところアフリカ単一起源説が正しいことを証明してきたのは明らかであるようだ。遺伝学の研究成果を、主に次の三点にまとめることができる。 (PP. 44-45)
事の発端は、おそらく紀元前九〇〇〇年紀から一万年紀の間に中東で起こった。なぜその時、そこで起こったのだろうか? その過程に至った直接の原因について、また正確には何がきっかけとなったのか、考古学者たちはさまざまな意見を述べている。しかしわれわれの目的のためには、考古学者の意見だけでなく、もっと幅広い観点から捉えた方が役に立つだろう。完新世の始まりを考察してきて、われわれはすでにその答えを知っているので、この段階で「なぜその時?」という疑問に手間取っている必要はない。「なぜそこで?」という疑問はそれよりも興味深い。つまりあまりに明白なので、かえってめったに言及されない点であるからだ。 (PP. 46-47)
~~。農耕がその発生の地から広がっていったことが、唯一立証された厳然たる事実であり、ふつう農耕といえば中東で標準的な栽培作物と家畜飼育のワンセットを意味する。例えば、数千年の間にこの中東の標準型が東はインド北西部(紀元前五〇〇〇年以前)、西はブリテン島(紀元前四〇〇〇年)まで広まった。~~。 (P. 49)
それでは中東に戻って、新石器革命の浸透の様子を見てみることにしよう。私がこういう表現を用いるからといって、農耕の発生が無条件に成功を収めたというわけではない。実際紀元前六〇〇〇年頃までに、パレスティナの農耕社会は彼ら自身の営みにより深刻な環境破壊を蒙っていた(家の壁を漆喰で塗るために石灰を必要としたので、非常に多くの森林を焼き払ってしまったことによる)。そして今日に至るまで、中東地域は長年の農耕と牧畜の影響でひどく荒れ果てた風景がひろがっている。~~。 (PP. 54-57)
遺伝学が一回きりの栽培化の例として立証したのは、アインコルンと呼ばれる小麦の一種である。栽培化された(栽培種)アインコルンは、現在のトルコ南東部で紀元前九〇〇〇年紀にはすでに耕作されていた。栽培種アインコルンと野生種アインコルンの (PP. 62-63)
石器と異なり、土器は完新世、それも農耕社会に現れた現象である。旧石器時代の狩猟採集民は、移動生活を送っている限り、壺を使う必要はほとんどなかった。土器は重い上に壊れやすく、持ち運びには不便であるからだ。すなわち土器は、アジアとアメリカの旧石器文化では重要な要素ではなかった。農耕同様、これら二つの地域では土器が独自に発展していったに違いない。 (PP. 145-147)
アフリカの農耕・牧畜の起源が大陸の北半分にあるのは意外ではない。その中でもかなり早い時期に発展したのは、今日よりも温和な環境であったサハラ砂漠における牛の家畜化だったかもしれない。サハラ砂漠東部では紀元前七〇〇〇年頃のことである。第二章で見たように、他からの影響を受けず、独自に家畜化が進められたに違いない。サハラ以北の地中海沿岸で広まったのは、時代はもう少し後になるが、中東型の農耕だった。サハラ以南のサバンナ地帯では北から家畜動物が持ち込まれたが、雨期が冬である北と異なり、夏が雨期にあたる地域では、植物はその土地で栽培できるようにした植物でなければならなかった。この地で農耕が定着したのは紀元前四〇〇〇年から同一〇〇〇年の間のことであったようだ。さらに南の熱帯雨林では、栽培化したヤムイモの耕作を中心とした農業の型が登場した。しかしアマゾン川流域と同じように農耕開始の年代についてははっきりしない。したがって、アフリカにおける農耕の発祥が、中東から伝播してきた結果であることをはっきりと示す例もあるとはいえ、たいていは刺激伝播の結果なのか、外からの影響なしに独自に発展したものなのか結論を下すのが難しい。これと対照的に、物質文化の面ではアフリカのサバンナの方に先取権があり、ここでは中東に先んじて紀元前九〇〇〇年頃には土器が作られていた(中東では紀元前七〇〇〇年頃)。 (PP. 310-313)
(P. 8)
~~ここで「西アジア」について断っておく。この概念は、以前から日本の研究者が使用してきたものの、まだ馴染みのない表現かもしれない。従来の中東やオリエントという名称が、ヨーロッパから眺めたときに有効であり、そこに西欧中心主義の臭いをかぎとった日本人研究者が、アジアの西部という中立的な表現に置き換えることを提唱したのである。編者もこれに同意し、本書では西アジアという表現を使用する。 (P. 11)
~~。およそ一万一五〇〇年前の更新世の末ごろを境に、新石器時代を迎える。時代の区切りは、新しい石器の組み合わせの登場を基準とするよりも、初期農耕村落の出現という生業面に基準を置く場合が多い。新石器時代は、石器などの遺物の変化と土器の有無をもって、先土器新石器時代 (PP. 13-14)
農耕が社会変革の源であるとする見方にはかなり長い歴史がある。啓蒙主義が隆盛した一八世紀において、ジャン=ジャック・ルソー (P. 49)
~~。西アジアにおいて土器の製作が一般化するのは、日本列島をはじめとする東アジアと比べると大きく遅れ、前七〇〇〇年ごろである。このころすでに農耕・牧畜に基盤を置いた社会が成立しており、土器の出現は食糧生産の開始よりも大きく遅れることがわかっている。 (P. 85)
興味深いのは、先土器新石器時代 (PP. 223-224)
旅は、文明の十字路と呼ばれるトルコのイスタンブールからはじまる。 (PP. 225-226)
この遺跡の重要性が指摘されたのは、 (PP. 228-229)
シュミット博士は自身の意見を簡潔に述べてくれた。 (PP. 230-231)
ギョベックリ・テペ遺跡とはどうやら、非日常の施設であり、葬式など儀礼のための施設であるとともに、広い地域に住む人々が集団の枠を越えて共同で利用する施設でもあったのだ。 (P. 232)
「古代の宗教は、西欧の一神教をはじめ、現在の主な宗教とは類似していなかったでしょう。私は宗教研究の専門家ではありませんが、その分野の専門家は宗教史の再構成を試みています。その研究によれば、多くが精霊信仰を起源としています。古代の宗教はそれに類似している可能性があるでしょう。万物に生命力がある。一つの石にも魂がある。このような精霊信仰が背景にあったことは予測できます」 (PP. 234-235)
夜遅くイスタンブールのアタテュルク国際空港を飛び立った飛行機は、東へと進路を取った。向かう先はイラク北部の都市エルビルだ。 (PP. 236-237)
私たちが人類最初の闘争の地としてイラク北部に誘われたのは、ある研究者との出会いがきっかけだった。アメリカのラトガース大学のブライアン・ファーガソン博士だ。 (P. 238)
「私の見解では、最古の戦争はイラク北部、現在のモスル付近で起こりました。これは、世界中の証拠を検証した結果です。モスル付近には、三つの遺跡があります。ケルメズ・デーレ、ネムリク、そしてムレファートです。イラク北部のこの地域では、 (PP. 242-243)
パプアニューギニアは世界で二番めに大きな島であるニューギニア島の東半分を占める。日本の (P. 244)
遺伝子の調査によれば、アフリカを出た人類のうち西へ進んだグループと、東へ進んだグループがいる。東へ進んだうち、海岸線をたどったグループは東南アジアに到着し、その後オーストラリアへと渡っていった。~~。 (PP. 245-246)
こうした根栽農業は、 (PP. 249-250)
なぜ人々は戦うのか。 (PP. 251-253)
ひるがえって (P. 267)
ギョベックリ・テペ遺跡のそばにあるのは、戦いの母である三つの遺跡だけではない。じつはもっと近い位置に思いがけないものがあった。 (PP. 279-283)
じつは考古学の世界では、狩猟採集社会から農耕社会への移行について、大いなる見直しが進んでいる。以前は、その移行は必然だと考えられていた。不安定な狩猟採集から、安定的な農耕に移るのは、歴史が進めば当然起こるべき「進歩」だというわけだ。農耕をはじめるに十分な知恵がつけば、誰でもそちらを選択するはずだという理屈である。 (PP. 310-311)
農耕・牧畜を成功させた人類の歩みは順風満帆だったかに見える。しかし、その後、思わぬ落とし穴が待ち受けていたという説がある。オーストラリアのニューサウスウェールズ大学気候変動研究センター教授のクリス・ターニー博士の説をご紹介しよう。 (P. 312)
(PP. 321-322)
~~、この章のテーマは、繁栄が人類の心をどう変えたか、ということだ。そして、とりもなおさずそれは、いまも繁栄を求めてひた走る、私たちを知ることにもつながる。さらに言えば、将来、人類がどのような方向に向かうのか、についても。 (PP. 327-328)
テル・ブラクで都市が誕生した後、加速度的に分業は盛んになっていったと考えられている。その証拠がイラクで見つかった。テル・ブラクの発掘以前、長らく都市の起源と考えられてきたイラクの都市遺跡だ。 (PP. 329-330)
こうなると気になってくるのが、この章のテーマである「繁栄が人類の心をどう変えたか」ということだ。そのことを聞きに、メソポタミアの宗教・哲学が専門のウィーン大学、ゲッパルト・ゼルツ博士を訪ねた。~~。 (PP. 337-340)
~~、分業は高度な専門化を可能にした。 (P. 385)
みんなが寄り添って暮らしていた生活にかわって出現するのは、同じ集落に暮らしながら、孤立して生きる人間の姿かもしれない。 (PP. 387-388)
コインが歴史上初めて「無限の欲望」と「個人」を生んだ。これこそが、長年の人類の平等社会を変えたとシーフォード博士はいう。 (P. 406)
ドイツの哲学者ジンメルが