ハンドアックス・握斧(あくふ)百万年 からの革新

 

『繁栄』〔上〕 〔マット・リドレー/著〕

 

 第2章 集団的頭脳 ―― 20 万年前以降の交換と専門化
 (PP. 77-78)
 五〇万年近く前のある日、現在のイングランド南部ボックスグロウヴ村の近くで、六、七人の化石人類が、おそらく木の槍で仕留めたばかりの、野生の馬の死骸を囲んで座っていた(3)。それぞれが燧石[すいせき]の塊を拾い上げ、石か骨かシカの角のハンマーを器用に使って割り、ハンドアックスを作り始める。やがて、左右対称で縁の尖った涙形の道具ができ上がる。アイフォンとコンピューター・マウスの中間ぐらいの大きさと厚みだ。その日に残された破片は今もなお地面に散らばり、座って作業をした彼らの脚の不気味な影を浮かび上がらせている。彼らが右利きだったことも見て取れる。それぞれが自分の道具を作ったことに注目してほしい。
 その馬を解体するために彼らが作ったハンドアックスは、アシュール文化の精巧な両面加工石器のすばらしい例だ。~~。それを作った種が絶滅して久しいので、それがどう使われたのか、はっきりしたことは永遠にわからないかもしれない。だが、一つだけたしかなことがある。この道具を作った生き物は、それにとても満足していた。なにしろ、ボックスグロウヴで馬を解体していた化石人類の祖先は、手の中に収まる、縁の尖った、両面加工というほぼ同じデザインの石器を、およそ一〇〇万年にわたって作り続けてきたのだ。そして、彼らの子孫もさらに何十万年にもわたって作り続けることになる。一〇〇〇年紀[ミレニアム]一〇〇〇回分、一万世紀、三万世代以上という、想像を絶するほど長い期間、同じテクノロジーを引き継いできたわけだ。
 それだけではない。彼らはアフリカの南部と北部、そしてそのあいだのいたるところでほぼ同じ道具を作ってきた。近東やヨーロッパの最北西部にもそれを持ち込んだ(ただし、東アジアには至らなかった)が、それでもなお、そのデザインは変わらなかった。彼らは一〇〇万年間、三つの大陸にまたがって、同じ道具を作り続けた。その一〇〇万年間に、彼らの脳は三分の一ほど大きさを増した。これは驚くべきことだ。アシュール文化のハンドアックスを作った体と脳は、その道具よりも速く変化したのだ。

 

 (PP. 80-81)
 ~~。進化上の変化は、種の中で習性の変化が起きることによってではなく、ある種から分かれた種がもとの種に取って代わることで起きる。人類の歴史の物語で何が意外かと言えば、それは、アシュール文化のハンドアックスが気の遠くなるほど長い間、変化しなかったことではなく、その停滞状態に終止符が打たれたことなのだ。
 五〇万年前にボックスグロウヴにいたヒト科の動物(ホモ・ハイデルベルゲンシス)は、自らの生態学的地位[ニッチ]を確保していた。たいてい、好みとする棲息環境で食べ物も住まいも手に入れ、異性を誘惑し、赤ん坊を育てた。二足歩行をし、大きな脳を持ち、槍やハンドアックスを作り、しきたりを教え合い、ひょっとすると、文法にのっとって話したり、あるいは合図をしたりし合い、ほぼ確実に火をおこして食べ物を調理し、まちがいなく大きな動物を殺した。~~。ここが肝心なのだが、彼らはニッチを広げも変えもしなかった。自らのニッチの虜[とりこ]になっていた。ある日目覚めて、「暮らし方を変えることにしよう」などと言い出す者は誰もいなかった。
 こう考えてみるといい。私たちは世代を経るごとに歩き方、あるいは息の仕方、笑い方、嚙み方がうまくなるとは思えない。旧石器時代のヒト科の動物にとって、ハンドアックスの製作は歩行のようなもの、つまり、練習をして上手になり、その後二度とそれについて考えたりしないことだった。身体的機能のようなものだ。部分的には模倣や学習によって伝えられたのはまちがいないだろうが、現代の文化的伝統とは違い、地域や地方による差はないに等しかった。それはリチャード・ドーキンスが直立したヒト科の動物[エレクトゥス・ホミニド]種の「延長された表現型」と呼ぶもの、すなわち、遺伝子の外的発現の一部だった(6)。~~。これまでずっとそうしてきたし、これからもずつとそうするだろう。彼らは生まれつきそうするのだ。縁の尖った涙形の石器を作る行為は、鳥が巣を作る行為以上の技能を必要としないし、おそらくそれと同じぐらい本能的なものだったのだろう。それは、人類の発達の自然な表現だった(7)

 

 (PP. 88-92)
 ~~。もし遺伝的な変化が人間の新しい習性を引き起こしたのなら、その影響が異なる場所で異なる時代に徐々に不規則に現われ、いったん定着すると一気に加速するのはなぜか? 新しい遺伝子の影響がオーストラリアではヨーロッパよりゆっくり現われることなど、なぜありうるのか? 二〇万年前以降の人間のテクノロジーの現代化をどう説明しようと、その現代化は自分自身を糧[かて]にして加速するもの、自己触媒的なものでなくてはならない。
 ~~。私に言わせれば、答えは気候や遺伝子、古代の遺跡、いや全面的には「文化」の中にすらなく、経済にある。人間はあることを互いにし始め、それが実質的に集団的知性を作り上げるきっかけとなった。すなわち彼らは、血縁者でも配偶者でもない相手と、初めて物を交換し始めたのだ。~~。その結果、専門化が起き、それがテクノロジーの革新を引き起こし、そのせいでさらに専門化が促進され、交換がいっそう盛んになった。こうして「進歩」が生まれた。私の言う「進歩」とは、テクノロジーと習性が人間の体より速く変化することだ。彼らはフリードリヒ・ハイエクが「カタラクシー」と呼んだものを思いがけず手に入れた。つまり、分業が進むことで生じる、拡大する一方の可能性をわがものにした。これは、いったん始まると自らを拡張し続けるプロセスだ。
 交換は発明される必要があった。ほとんどの動物は自発的に物を交換したりはしない。ほかのどんな動物種も物々交換をすることは驚くほど珍しい。家族の中での分かち合いはあるし、食べ物と引き換えの交尾は昆虫や類人猿も含めて多くの動物で見られるが、ある動物が血縁関係にない動物から何かと交換で別の物を手に入れるケースはまったくない。「犬がほかの犬と公平かつ意図的に骨の交換をするのを見たことがある者は誰もいない」とアダム・スミスは述べている。
 ここで少し本筋から離れる必要があるので、しばらく付き合ってほしい。私は恩恵の交換のことを言っているわけではない。そうした交換なら、ある程度の年齢に達した霊長類なら、誰もができる。サルや類人猿のあいだでは「互恵[ごけい]的行為」がたっぷり見られる。君が僕の背中を掻[か]いてくれたら、僕も君の背中を掻いてあげようという類だ。~~。このような互恵的行為は、人間関係の大切な接着剤で、協力の源であり、人間が動物だったころから受け継いできた習性で、それがあったからこそ人間は交換ができるようになったことは確実だ。だが、互恵的行為は交換と同じではない。互恵的行為は、(たいていは)違う時点で同じものを与え合うことを意味する。交換(物々交換あるいは交易と呼んでもかまわない)は、(たいていは)同時に違うものを与え合うことを意味する。それをアダム・スミスはこう言っている。「私のほしいそれをくれれば、あなたがほしいこれをあげよう(23)
 物々交換は互恵的行為よりもずっと効果がある。~~。そのうえ、すばらしい特徴がある。公平である必要すらないのだ。物々交換が成立するには、両者が同じ価値のものを提供しなくてもいい。交易は釣り合いが取れていないことが多いが、それでも両者が得をする。この点をほとんどの人が見落としているようだ。たとえばカメルーンの草原地帯では、昔は、この地域の周辺のいちばん痩せた土地に住んでいるヤシ油の製造者は、一生懸命働いて価値の低い製品を作り、それと交換で近隣の人たちから穀物や家畜、鉄製品を手に入れてきた。鉄の鍬[くわ]の代価を生み出すのに、彼らは平均して三〇日働かなければならなかったが、鍬の作り手は七日働けば済んだ。それでも彼らにしてみれば、ヤシ油は自分たちの土地で自分たちの資源を使って作れるもののうち、最も利益の大きい産品だった。最も安く鉄の鍬を手に入れるには、より多くのヤシ油を作ればいい(24)。あるいは、パプアニューギニアのトロブリアンド諸島の、魚の豊富な沿岸に住む部族と、果物が豊富な内陸部に住む部族を想像してほしい。両者は異なる棲息環境にあるかぎり、自分が持っているものよりも相手が持っているもののほうを高く評価するから、交易はどちらにとっても旨味がある。そして、交易をすればするほど、専門化の見返りも大きくなる。
 進化心理学者たちは、二人の人間が相手にとって価値のあるものを同時に提供できる状況は稀[まれ]だと考えてきた。だが、これは正しくない。なぜなら人は自分がアクセスできないものを高く評価しうるからだ。そして、交換に頼れば頼るほど、専門化が進み、交換はさらに魅力を増す。したがって、交換は爆発的な発展の可能性を秘めている。交換は増殖し、爆発的に増加し、成長し、自らの触媒となる。たしかに交換は、互恵的行為という、もっと古い動物的な本能の上に築かれているかもしれないし、言語によって独特のかたちで大幅に促進されたかもしれない。私はこれらが、交換の習性が発生するのを可能にした人間の本質に不可欠の要素ではなかったなどと言っているのではない。そうではなくて、物々交換(異なるものを同時に与え合うこと)自体が人間にとって画期的な進歩であり、ことによると、私たちの種が生態的に優位に立ち、物質的に繁栄していった最大の要素でさえあると言っているのだ。基本的に、ほかの動物は物々交換をしない。
 いまだに理由はよくわからないのだが、経済学者にも生物学者にも、この点がなかなか理解してもらえない。経済学者は交換のことを、一般的な互恵的行為を人間が拡大した習性の一例としか考えない。生物学者は、互恵的行為(「相手がしてくれるように相手にもする」)が社会的進化で果たした役割について語る。彼らのどちらも、私が必須と考える区別に興味がないようだ。だから、ここであらためて言っておこう。何百万年ものあいだ、少しずつ程度を増しながら互いに背中を掻いてやり合ったあと、ある時点で、ある種が、唯一その種だけが、まったく異なる巧妙な手段を偶然発見した。アダムがオズにある物を与え、それと引き換えに、違う物を手に入れたのだ。これは、アダムが今、オズの背中を掻いてやり、オズがあとでアダムの背中を掻いてやるのとは同じではない。あるいは、アダムが今、オズに余った食べ物を与え、明日、オズが余った食べ物をアダムに与えるのとも違う。この出来事が画期的なのは、今やアダムもオズも自分が作り方も見つけ方も知らない物への潜在的なアクセスを確保できた点だ。そして、交換をすればするほど、交換の価値は高まった。なぜかはわからないが、ほかの動物種はこれまでこの手段を発見することがなかった。少なくとも、血縁関係にない個体どうしのあいだでは。
 私の言葉を鵜呑[うの]みにする必要はない。証拠はほかにもある。霊長類学者のサラ・ブロスナンはチンパンジーの二つの異なる集団に物々交換を教えようとしたが、とても苦労した(25)。彼女が使ったチンパンジーはブドウ、リンゴ、キュウリ、ニンジンをこの順で好んだ。彼らはニンジンを差し出してブドウを受け取ることはたまにあったが、リンゴと引き換えにブドウをもらうこと(あるいはブドウと引き換えにリンゴをもらうこと)はほとんどなかった。条件が自分に有利でも関係ないのだ。彼らには、自分の好きな食べ物を差し出して、さらに好きな食べ物をもらうことの意義が理解できなかった。チンパンジーやサルには代用通貨[トークン]を食べ物と交換するように教え込むことができる(26)が、これは、ある物を別の物と自発的に交換するのにはほど遠い。トークンはチンパンジーには何の価値もないので、彼らは喜んで差し出す。真の物々交換では、自分が価値を認める物を差し出し、それと引き換えに、自分がもう少し高い価値を認める物を受け取る。

 

 (P. 101)
 物々交換こそ世界を変えた芸当だった。HG・ウェルズの言葉を借りれば、「私たちは野営地を永遠に引き払い、旅の途に就いた」のだ(44)。およそ八万年前にはアフリカの大半を制した現生人類は、それでやめにはしなかった。私たちの遺伝子はほとんど信じられないような話を語っている。アフリカ以外で生まれた人全員のミトコンドリアの染色体と Y 染色体の DNA に見られる変異のパターンを調べると、次のような筋書きが実証される。六万五〇〇〇年ほど前、あるいはそれよりそれほど時を経ない時点で、総数わずか数百人程度の一集団がアフリカを離れた。彼らはおそらく、当時は今よりずっと狭かった紅海南端の海峡を渡ったのだろう。それからアラビア半島南岸沿いに広がり、大部分が干上がったペルシア湾を越え、インドと、当時は陸続きだったスリランカの沿岸を通り、ゆっくりと先へ進み、ミャンマー、マレー半島を抜け、そのころはインドネシアの島々の大半が埋め込まれていたスンダと呼ばれる陸塊の岸に沿って広がり、やがてバリ島近くの海峡に至った。だが、彼らはそこでも止まらなかった。きっとカヌーか筏[いかだ]に乗り、少なくとも八つの海峡(最大のものは六五キロメートル以上)を漕[こ]ぎ渡り、島伝いに進んで、おそらく四万五〇〇〇年ぐらい前に、オーストラリアとニューギニアが合わさった大陸、サフルにたどり着いた(45)

 

 (PP. 106-108)
 この間、新しいテクノロジーの流れが勢いを増していた。四万五〇〇〇年前ころから、ユーラシア西部の人びとは、しだいに道具を改革していった。~~。
 彼らの卓抜した技量は、実用的な分野だけで発揮されていたわけではない。~~。モスクワ北東の町ウラディーミル近くの、二万八〇〇〇年前の野外居住地スンギルの時代には、人びとは、丹念に刻んだ象牙のビーズを何千と使って飾った服を着せられて埋葬された。車輪状の小さな骨の飾りさえ登場した。現在のウクライナのメジリチでは、黒海の貝殻とバルト海沿岸の琥珀でできた一万八〇〇〇年前の宝石が見つかっており(55)、何百キロメートルにもわたって交易が行なわれていたことがわかる。
 これはネアンデルタール人とは大違いだ。彼らの石器は、必ずと言っていいほど、その石器が使われた場所から徒歩で一時間以内で手に入る原料で作られていた(56)。これは私にとって、ネアンデルタール人が依然としてハンドアックスを作っていたのに、アフリカからやってきた競争相手が次々に新しい種類の道具を生み出した理由を考える上で、重要な手掛かりとなる。交易がなければ、逆立ちしてもイノベーションは起きない。テクノロジーにとって交換は、進化にとっての生殖に匹敵する。交換は斬新さを生む。西アジアの現生人類に関して何が目覚ましかったかと言えば、それは彼らの道具の多様性よりもむしろ、継続的なイノベーションだ。八万年前から二万年前までの期間には、それ以前の一〇〇万年間よりも多くのイノベーションがなされた。今日の基準に照らすと、それはずいぶん遅いが、ホモ・エレクトゥスの基準を当てはめれば、電光石火と言える。そして、その後の一万年間には、さらにイノベーションが見られる。釣り針、ありとあらゆる種類の器具、オオカミの飼い馴らし、コムギ、イチジク、ヒツジ、お金。

 

 (PP. 123-124)
 ~~。人間の文化の進歩は、集団的な事業であり、濃密な集団的頭脳を必要とする。
 したがって、三万年以上前に西アジアと近東で盛んになったと思われるテクノロジーと文化の伝統の目覚ましい変化、いわゆる後期旧石器時代革命も、高い人口密度によって説明できるかもしれない。~~。相互につながった大きな個体群があると、累積的な発明が速まる。これは今日でさえ意外な真理であり、香港とマンハッタンの両島がその効果を実証してくれている。経済学者ジュリアン・サイモンの言うように、「人口増加が収穫逓減[ていげん]につながるというのは虚構である。そこから生産性の増大が引き起こされるのは科学的事実なのだ(76)」。~~。

 第4章 90 億人を養う ―― 1 万年前からの農耕
 (PP. 185-187)
 ~~。コムギ畑を最初につくった人は、どうやって「これは私のものだ。収穫してよいのは私だけだ」と主張するかという難題に直面したに違いない。最初の私有財産のしるしは、八〇〇〇年前、シリアとトルコの境に住んでいたハラーフ文化の人びとによる印章だ(24)。同様の印はのちに所有権を示すために使われている。このように農耕民が土地に群がるのを、残っていた狩猟民は当惑して傍観していたと思われる。~~。
 一方、採集が農耕に取って代わられたように、狩猟は牧畜に取って代わられた。~~。狩猟採集民の市場が今や牧畜農耕民の市場になったのだ。ハイム・オフェクはこう書いている。「人間の立場から見ると、農業の黎明期に何より役に立ったのは、物々交換の習慣が確立されていたことだ。これ以上ないほどうまく、食物生産の分業へのニーズと食物消費の多様性へのニーズを合致させた(25)
 銅の製錬というのは、個人はもちろん自給自足の部族にとっても、自らニーズを満たそうとするのは不合理な営みだ。~~。想像してみてほしい。木を切って木炭を作り、溶鉱用の陶器のるつぼを作り、鉱石を掘って砕き、さらに銅を成型したり槌[つち]で叩いたりしなくてはならない。それだけの仕事をなし遂げるには、蓄えられた他人の労働を消費する、つまり資本に頼るしかない。~~。しかし農業のおかげで資本が調達され、人口密度が高くなり、木を切り倒すもっともな理由ができたからには、銅を近隣の部族に売れるうちは、その製錬を専門に行なう人たちのコミュニティを支えるだけの市場が生まれる可能性がある。あるいは、二人の理論家の言葉を借りると、「農業によって実現した人口密度の高い社会では、協力、協調、そして分業の可能性をうまく開発することで、かなりの収益を上げることができる」のだ(26)
   原 注  第2章
3.  Potts, M. and Roberts, M. 1998. Fairweather Eden. Arrow Books.
6.  話を単純にするために、およそ 150 万年前から 30 万年前までの間に生きていたヒト科の動物のあらゆる種を、この期間のヒト科の動物を指す、最も伝統があって最も包括的な名称にならい、「直立したヒト科の動物[エレクトゥス・ホミニド]」と呼ぶことにする。現在、このカテゴリーには以下の四つの種を含めるのが一般的だ。アフリカ最古のホモ・エルガステル、少しあとにアジアに出現したホモ・エレクトゥス、アフリカから出てのちにヨーロッパに入ったホモ・ハイデルベルゲンシス、そしてその子孫、ホモ・ネアンデルターレンシスだ。Foley, R.A. and Lahr, M.M. 2003. On stony ground: Lithic technology, human evolution, and the emergence of culture. Evolutionary Anthropology 12: 109-22 を参照のこと。
7.  Richerson, P. and Boyd, R. 2005. Not by Genes Alone. Chicago University Press の以下の言葉を参照のこと。「アシュール文化の両面加工のハンドアックスは完全に文化的なものではなく生得的な制約を受けている。時を経てもデザインが安定しているのは遺伝的に伝わる何らかの心理的要素が原因であるという仮説を考えてみる必要があるのかもしれない」
23.  この段落と前の段落のアダム・スミスの言葉は、ともに The Wealth of Nations (1776), book 1, part 2〔『国富論:国の豊かさの本質と原因についての研究』、山岡洋一訳、日本経済新聞出版社、2007 年、他〕より。
24.  Shennan, S. 2002. Genes, Memes and Human History. Thames & Hudson. に引用された Rowland and Warnier の言及。
25.  Brosnan, S.F., Grady, M.F., Lambeth, S.P., Schapiro, S.J. and Beran, M.J. 2008. Chimpanzee autarky. PLOS ONE 3 (1): e1518. doi: 10.1371/journal.pone.0001518.
26.  Chen, M.K. and Hauser, M. 2006. How basic are behavioral biases? Evidence from capuchin monkey trading behavior. Journal of Political Economy 114: 517-37.
44.  Wells, H.G. 1902. ‘The Discovery of the Future’. Lecture at the Royal Institution, 24 January 1902, published in Nature 65: 326-31. The Literary Executors of the Estate of H.G. Wells の代理 AP Watt Ltd の許可を得て転用。
45.  O’Connell, J.F. and Allen, J. 2007. Pre-LGM Sahul (Pleistocene Australia-New Guinea) and the archaeology of Early Modern Humans. In Mellars, P., Boyle, K., Bar-Yosef, O. et al., Rethinking the Human Revolution, Cambridge: McDonald Institute for Archaeological Research, pp. 395-410.
55.  Ofek, H. 2001. Second Nature: Economic Origins of Human Evolution. Cambridge University Press.
56.  Stringer. C. 2006. Homo Britannicus. Penguin.「ネアンデルタール人の石器はほぼすべて、彼らの遺跡から徒歩で 1 時間以内の範囲に由来する原料で作られていたのに対して、クロマニョン人はずっと移動能力が高かったか、あるいは、何百キロメートルにもおよぶ範囲を網羅した、資源を得るための交換ネットワークを持っていたかのどちらかだろう」
76.  Simon, J. 1996. The Ultimate Resource 2. Princeton University Press.
   原 注  第4章
24.  http://www.tellhalaf-projekt.de/de/tellhalaf/tellhalaf.htm.
25.  Ofek, H. 2001. Second Nature: Economic Origins of Human Evolution. Cambridge University Press.
26.  Richerson, P.J. and Boyd, R. 2007. The evolution of free-enterprise values. In Zak, P. (ed.) 2008. Moral Markets. Princeton University Press.
The End of Takechan
氷期の終わり・農耕の起源

 

歴史新書
『ホモ・サピエンスの誕生と拡散』 〔篠田謙一/監修〕

 

 25 絶滅の末路をたどった ホモ・サピエンス最初の遠征
 (PP. 94-95)

 

 ホモ・サピエンスがアフリカを出て他の大陸へと至った「出アフリカ」は、6 万年前だとされますが、東部地中海沿岸のレバント地方の「カフゼー遺跡」と「スフール遺跡」からは、10 万年以上前のホモ・サピエンスの化石が見つかっています。現代人の祖先が行った出アフリカよりも 4 万年ほど前に、人類はイスラエルに到達していたのです。
 ~~。これらの人骨のなかには、動物の頭を抱えた状態のものがあり、埋葬時の副葬品だった可能性が示唆されています。
 ~~。しかしレバントで発見された他の遺跡からは、10 万年前以降の遺物や化石は見つかっていません。
 埋葬を止めたため、人骨が残りにくくなったとの言説もありますが、ホモ・サピエンスのものらしき石器なども見られなくなるため説得力に欠けます。10 万年前というと、暖かな間氷期の終わり頃で、以降じょじょに寒冷な気候に移っていきます。それにともなってアフリカ生まれのホモ・サピエンスが中東から南に移動したと考えると自然です。
 レバント付近からは、より寒気に適応していたネアンデルタール人の人骨も見つかっており、彼らとの衝突により滅んだという説もあります。どちらにしても、この最初の移動は失敗に終わったようです。

 26 6 万年前にホモ・サピエンスが 成し遂げた出アフリカ
 (PP. 96-97)

 

■ 移動ルートの可能性は「北」「南」の 2 種類
 ホモ・サピエンスは長い間、アフリカ大陸だけに居住してきました。しかし 6 万年ほど前にアフリカから出て、アジアなど他の地域へと移動したのはすでに説明したとおりです。これを『旧約聖書』の「出エジプト記」にちなんで「出アフリカ」と呼んでいます。
 ~~。
 近年までの調査の結果、ホモ・サピエンスが出アフリカを果たしたルートとして、2 つの有力な経路が提唱されています。一つは、アラビア半島とアフリカ大陸北東部の間にあるシナイ半島を経由する「北方ルート」。もう一つはバブ・エル・マンデブ海峡を通ってアラビア半島へと至る「南方ルート」です。バブ・エル・マンデブ海峡とは、アラビア半島南西部のイエメンと東アフリカのエリトリア、ジブチ国境付近の、アラビア海から紅海へとつながる海峡のことです。アフリカ以外の世界中の人々の遺伝子の研究からは、移動が複数回に分かれていたとは考えにくく、どちらが使われたのかの論争は現在も続いています。
 ~~。
 二つの説のうち、DNA 研究から有力とされているのは南方ルートです。このルートを利用して出アフリカに成功したとすれば、東南アジアに残る古い化石の示す証拠と遺伝的なデータの整合性がとれるからです。

 28 移動から定住へ 海の恵みを利用する海洋民の誕生
 (PP. 104-105)

 

 最終氷期は 2 万年ほど前に最寒期を迎え、以降、気温は少しずつ高くなっていきました。それにともない、海水面も上昇し始めます。5000 年前には現在よりも 4 メートルほど高くなったことがわかっています。~~。
 正確な年代はわかりませんが、この頃にはすでに魚や貝、水鳥などの食料が手に入れやすく、気候も安定して生活に適した河口付近に、長期間暮らす集団があったことも考えられます。こうして生まれたのが海洋民です。それまで移動しながら生活していた人類が、永続的定住地を形成したということになります。
 人々は海沿いに定住しつつ、海へと進出していきました。人類が航海技術を手に入れた時期は非常に早かったと考えられています。出アフリカにしても、南ルートを通るには海峡を越える必要がありました。

 35 人類史上の大発明 農耕の獲得でヒトの生活は大きく変化
 (PP. 126-127)

 

 1 万年前頃、ホモ・サピエンスは「農耕」を手に入れました。「狩猟・採集」生活から、稲や麦などを栽培する農耕生活への変化が始まったのです。農耕によって、人々は安定した食料需給を得て、その数を増やすことができました。しかし同時に、土地の重要性が増し、もてる者ともたざる者の差、つまり貧富の差や身分の差も生まれました。この「農業革命」は世界各地で多発的に起こったといわれています。
 農耕による人口の増加は新たな人類拡散の契機にもなりました。約 6000 年前に、東アジアからインドへ農耕文化を伴うヒトの進出があったらしいことは有名です。農耕の拡散には二つの考え方があります。一つは農耕の知識だけが伝播し、もともと住んでいた人々が農耕文化を受け入れて、狩猟生活から農耕生活に切り替える「文化拡散モデル」。もう一つは農耕民が採集狩猟集団を駆逐しながら拡散していく「集団拡散モデル」です。
 ただ実際には二分できるものではなく、集団拡散モデルをベースに在地の人々を巻き込んで拡大する、「ハイブリッドモデル」が主流だったと考えられます。
 たとえば、私たちが分析した 4000 年ほど前の農耕拡散期の遺跡であるベトナム北部のマンバック遺跡の人骨に残ったミトコンドリア DNA からは、東南アジアを中心にした特徴と、東アジアに特徴的なものが混在していたことがわかり、ハイブリッドモデルの農業拡散があったことが読み取れました。
 また、アフリカのバンツー語族の調査などから、農耕と言語の伝播が密接に関わっていることが示唆されています。文化や生態は、考古学的な試料と人骨両面の調査を行うことで、深い洞察が得られるのです。

 

The End of Takechan

 

『世界文明一万年の歴史』 〔マイケル・クック/著〕

 

 第一章 旧石器時代の背景

1 歴史がある時点で生じたのはなぜか

 (P. 24)
人類の過去の中でも最近の一万年を〈歴史〉と呼ぶことにしよう。~~。歴史がある時点で生じたのはなぜか? なぜ全てが過去一万年の間に集中したのか?

 

 (PP. 25-26)
 ~~。一番目に重要な点は、過去一万年間 ―― 地質学者が〈完新世〉と呼ぶ時代 ―― は著しく温暖な気候下にあったということである。地質学上の時代区分で、完新世の前の時代である更新世後期にそれと比較し得る時期を見つけるには、約一二万年前のイーミアン間氷期にまでさかのぼらなければならないだろう。実際このことが過去一〇〇万年間の傾向をはっきりと示している。つまり、比較的短く暖かな時代が大体一〇万年周期で繰り返されていた。二番目に重要な点は、完新世はさらなる特権を享受していた ―― すなわち、並外れて気候が安定していたという点である。~~。過去一〇万年もの間、このような時代はなかったし、現生人類が存在していたと考えられている時代の大半は完新世である。
 われわれがすでに定義した意味での歴史は、完新世の温暖で安定した気候条件に合致した。おそらくこの結びつきは不可解ではない。氷河期 ―― イーミアン間氷期と完新世の間の大半と、イーミアン間氷期の前の時代 ―― に歴史を生みだそうと試みても、ただうんざりするだけであっただろう。もっと正確に言えば、人類の歴史は農耕に基づいて展開したのであり、温暖でもなく安定もしていない全世界的な気候の中で農耕を維持発展することは、たとえ不可能ではないにしても、非常に難しかったであろうことは十分推測される。実際、更新世に農耕を行っていた形跡はこれまでのところ見つかっていない。したがって、完新世こそが歴史を作るために逃してはいけない、束の間開いた好機の窓だった。これが正しければ、どうして人間は歴史を作る前に非常に長く待たなければならなかったのか問う理由はない。[完新世以前に温暖であった]イーミアン間氷期を別にすれば、温暖な時代[完新世]が始まるやいなや、人類は窓から飛び出したようであるからだ。

2 遺伝学が明らかにした人類の起源

 (PP. 32-34)
 ~~。遺伝学の重要な研究が一九八〇年代に始まり、これまでのところアフリカ単一起源説が正しいことを証明してきたのは明らかであるようだ。遺伝学の研究成果を、主に次の三点にまとめることができる。
 第一に、遺伝学的見地から人類は非常に均質である。つまり、われわれに最も近い種である類人猿よりも、遺伝子の上での差異が小さく、互いにきわめてよく似ている。これは今日の世界において政治的には歓迎すべき結論だ。もし、自身の種の内部での深い遺伝的裂け目を見たいという意味で、あなたが人種主義者であるなら、いっそ(動物学者が別個の亜種を三つ同定するのにたやすい)チンパンジーであった方が幸せであっただろう。遺伝子上の差異が小さく均質になる必要はなかったにもかかわらず、実際に現在そうであるという事実は、われわれの過去について何か示しているに違いない。明白なのは、人類の変化が比較的最近の出来事であったため、種の内部でチンパンジーのように差異化するほど十分に突然変異を重ねなかったということである。
 第二に、人類の起源がどれだけ新しいのか、「最近」という言葉がどれだけの年数か測定するために遺伝学が進めている研究がある。その基本的な考えは、観察された数の突然変異が蓄積するのにどのくらいかからねばならないのか計算することである。もちろんこれは無視すべき誤差の修正と統計学の方法論という問題を伴う。導き出された算定時期は大きく異なるが、だいたい五万年から二〇万年昔という範囲内である。われわれが化石と人工遺物をもとにして述べた計算が正しかったことを示している点で、これは慰めになる。しかし今日存在している人類が遺伝的に分岐したのが一三万年も前のこと(当時の人類がすでに完全に現生人類の特徴を有していたとして)なのか、それとも五万年しか(完全な現生人類がこの時ようやく出現したとすれば)経っていないのか、という問題に決着をつける上で役に立たないという点では不満が残る結果である。
 第三に、遺伝学的証拠から、人類の生誕の地がアフリカであることがますます確実視されている。ここで関連するのが、ある地域で発生したのが他の地域に伝播していき、時が経つにつれ変化を遂げるもの(種、言語、文化的営みといったこと)全てに応用可能で、ごく一般的な原則である。他の条件が同じとして、そうした現象が最も細かく分化し、差異が生じている場所は、最も長く存在していた発祥の地であるはずだ。対照的に、最近伝播したばかりの地域では、分岐するのに十分な時間がなく、一つの決まった形態でそこにやって来たので、ほとんど差異は生じてないはずだ。現在ミトコンドリア DNA の研究からわかっているのは、アフリカの民族間の差異と、一般に、アフリカ以外の地域の民族とアフリカの民族との間の差異が最も大きいということである。アフリカ以外の民族は、アフリカの民族からなる一集団と一つにまとまっている。こうした研究成果から導き出される最も単純明白な解釈は、人類はアフリカで誕生し、そこで多種に分化し始め、かなり後の段階になってようやく世界の残りの地域へ広がっていった、というものである。

 第二章 新石器革命

1 歴史の形成が一挙に進んだのはなぜか

 (PP. 44-45)
 事の発端は、おそらく紀元前九〇〇〇年紀から一万年紀の間に中東で起こった。なぜその時、そこで起こったのだろうか? その過程に至った直接の原因について、また正確には何がきっかけとなったのか、考古学者たちはさまざまな意見を述べている。しかしわれわれの目的のためには、考古学者の意見だけでなく、もっと幅広い観点から捉えた方が役に立つだろう。完新世の始まりを考察してきて、われわれはすでにその答えを知っているので、この段階で「なぜその時?」という疑問に手間取っている必要はない。「なぜそこで?」という疑問はそれよりも興味深い。つまりあまりに明白なので、かえってめったに言及されない点であるからだ。
 農耕の基盤、すなわち人間社会の歴史的な発展全般の基盤となったのは草である。~~。そして草は、熱帯地方に起源を持つにもかかわらず、温帯性の気候で最も成功をおさめたのであった。
 もちろん、草は世界中に広く分布し、それと共に草食動物も広く分布している。しかし全ての草が栽培に適するわけではなく、また全ての草食動物が家畜化に適するわけでもない。家畜に適した草食動物の種類の分布はひどく偏っている。ユーラシア大陸は、植物・動物共に、世界のどの大陸よりもこの点ではるかに恵まれていて、例えば、野生の牛はヨーロッパから中国までの広い地域に生息していた。さらに、ユーラシア大陸の中でも最も恵まれていたのが中東地域であり、ここではとりわけ粒の大きな穀物が著しく豊富であった。したがって、新石器革命が中東で起こったのは、意外なことではない。もっと正確にいうならば、それは肥沃な三日月地帯、西はパレスティナから東は南部メソポタミアまで弓状に広がっている耕作可能地域で起こった。

 

 (PP. 46-47)
 ~~。農耕がその発生の地から広がっていったことが、唯一立証された厳然たる事実であり、ふつう農耕といえば中東で標準的な栽培作物と家畜飼育のワンセットを意味する。例えば、数千年の間にこの中東の標準型が東はインド北西部(紀元前五〇〇〇年以前)、西はブリテン島(紀元前四〇〇〇年)まで広まった。~~。

 

 (P. 49)
 それでは中東に戻って、新石器革命の浸透の様子を見てみることにしよう。私がこういう表現を用いるからといって、農耕の発生が無条件に成功を収めたというわけではない。実際紀元前六〇〇〇年頃までに、パレスティナの農耕社会は彼ら自身の営みにより深刻な環境破壊を蒙っていた(家の壁を漆喰で塗るために石灰を必要としたので、非常に多くの森林を焼き払ってしまったことによる)。そして今日に至るまで、中東地域は長年の農耕と牧畜の影響でひどく荒れ果てた風景がひろがっている。~~。

2 栽培植物と家畜の起源

 (PP. 54-57)
 遺伝学が一回きりの栽培化の例として立証したのは、アインコルンと呼ばれる小麦の一種である。栽培化された(栽培種)アインコルンは、現在のトルコ南東部で紀元前九〇〇〇年紀にはすでに耕作されていた。栽培種アインコルンと野生種アインコルンの DNA の配列を比較した結果、二つのことが明らかになった。一つは、栽培種アインコルンは単系であるということ ―― 言い換えると、栽培種アインコルンの全ての系統が野生種から分岐した一つの共通祖先にさかのぼる。この結果はアインコルンが栽培化されたのが一度きりだと立証するのに十分である。遺伝学がアインコルンを研究した結果明らかになった第二の点は、栽培種アインコルンはトルコ南東部の都市ディヤルバキル西部という特定の地域で見られる野生種の系統に極めて近いということであった。こうしたことに加え、アインコルンがどこで栽培化されたのか、今や推測できるようになった。大麦の場合も同様である。~~。アインコルンほど場所を絞り込めなかったが、大麦の栽培化が始まったのはパレスティナ地域であった。
 これら単系穀草植物と、家畜化された牛の起源について遺伝学が解明してくれた結果を対比してみよう。家畜の牛は単系ではなかった。中東の牛(われわれに最も馴染み深い種)とインドの牛(こぶのある種)のミトコンドリア DNA を調べた結果、二つの種が分岐したのが一〇万年以上前、すなわち牛の家畜化が始まる以前であったことが判明した。言い換えると、これら二つの種は異なる野生種を別々に家畜化した子孫であった。とはいえ、そのことが直ちに、二つの種が互いに影響を受けずに家畜化が進んだことを意味するわけではない。家畜化された中東の牛の飼育に精通している者であれば、刺激伝播の過程を適用し、インドの牛を家畜化できたであろう。しかしこれはアインコルンや大麦の場合とは全く異なる。遺伝学はアフリカの牛の起源についても明らかにした。アフリカの牛のミトコンドリア DNA ―― すなわち母系遺伝 ―― に関していえば、それらは概して中東の牛に似ている。しかしアフリカの牛の多くはインドの牛のようにこぶを持ち、Y 染色体 ―― 父系遺伝 ―― の点からいえば、中東型よりインド型から多くを受け継いでいる。言い換えると、アフリカの牛は、飼い主である人間の手でオスとメスが不均等に交配された結果もたらされた種であることは間違いない。しかしアフリカの牛の母系の遺産は、中東で家畜化された牛から受け継いだものなのだろうか? ヨーロッパの牛の場合は、遺伝子から中東起源であることが明らかで、独自に家畜化が行われたわけではない。しかしアフリカの牛は、おそらく中東とは無関係に独自に家畜化されたと考えられる。とはいえ、ここでも刺激伝播の可能性を完全に捨て去ることはできないのであるが。
 このように遺伝学のおかげで、農耕の発生時に何が起きたか、以前よりも鮮明に描くことが可能となった。しかし遺伝学には別の側面もあり、ここではそれに注目してみよう。
 栽培・飼育化された動植物は人間と共生している。我々は人間であるため、つい人間の視点からこの関係を考えてしまいがちであるが、生物学的見地からは双方は互恵的な関係にある。栽培化された小麦が進化の上で成し遂げたことを考えてみよう。小麦は人間という相棒にあれこれと世話を焼いてもらう関係を結んだ。人間は小麦のために土を耕し、種をまき、他の動物に食べられないよう守り、雑草を抜き、刈り入れ、冬の間はその種を貯蔵する。もちろん栽培者はその分け前をもらっていて ―― 小麦は人間から養分を取る寄生植物ではない ―― この分け前は、栽培している農民に、狩猟採集民よりもはるかに多くの食料をもたらしてくれた。しかしその代わりに、栽培された小麦は世界中に広がっていき、量の上では野生の原種に期待した以上の成果を収めた。確かに、かりに人類が絶滅することになれば、栽培化された小麦はひどく困難な状況に陥るだろう。人間に運命をゆだねているからだ。しかし現在までのところ両者の関係は非常にうまくいっている。同様のことは家畜化された動物についても言える。家畜になったことで生活の質という点では犠牲を払ったとしても、数の上では近縁の野生種よりもはるかにまさっている。

3 土器

 (PP. 62-63)
 石器と異なり、土器は完新世、それも農耕社会に現れた現象である。旧石器時代の狩猟採集民は、移動生活を送っている限り、壺を使う必要はほとんどなかった。土器は重い上に壊れやすく、持ち運びには不便であるからだ。すなわち土器は、アジアとアメリカの旧石器文化では重要な要素ではなかった。農耕同様、これら二つの地域では土器が独自に発展していったに違いない。
 だが土器と農耕が一般的には相応関係がみられるとしてもこの関係は完全ではなかった。全ての農耕社会が土器を製作していたわけではない。中東における新石器時代初期の社会のように、まだ土器のない社会も存在した。農耕社会に土器が存在していないことは、後の基準からすれば特筆すべき特徴であったので、考古学者は〈先土器新石器時代〉と名づけた。またある時点までは土器があったのに、その技術を失った社会もある。ニュージーランドのマオリ族の祖先はかつて土器を製作していたが、太平洋の島々を移住するうちにその技術は忘れ去られた。
 さらに興味深いことに、完新世の狩猟採集文化の中にも土器を持つ文化がいくつか存在する。日本の縄文時代は紀元前一万年紀から一〇〇〇年紀に及んでいるが、九州の島で出土した最古とみなされている土器は紀元前一万一〇〇〇年紀にさかのぼると言われている(それよりもさらに古いと主張する研究者もいて、ことによると、その年代は更新世の終わりにまでさかのぼるかもしれない)。紀元前七五〇〇年頃までの土器はいくらでも発見されている。しかし縄文時代の土器は粗末なつくりで、薄く、低温で焼かれたものである。焚き火が用いられたにすぎないのだろう(この点、例えば、新石器時代の中国で作られていた土器とは全く異なる)。それにもかかわらずこの土器から、定住できるほど豊かな狩猟採集文化で何が可能であったかわかる。この場合、豊富に得られる資源とは魚であった。問題は、なぜもっと多くの、このように他よりも恵まれていた狩猟採集民が土器を作り出さなかったのか、という点である。後期旧石器時代初期にヨーロッパに存在した文明の一つは、火で焼いた粘土からいろんなものを作り出した。だが、同じ時代のヨーロッパの文化であるマドレーヌ文化期の土器は一つも発見されていない。
 こういったことは大変興味をそそるが、これ以上深追いすべきではない。土器と農耕との結びつきは重要なことをわれわれに告げている。すなわち、農耕が始まった結果、持ち運びできないほど多くの物質文化を蓄積することが、それ以前の狩猟採集生活よりもはるかに容易になった。こうして、なぜ農耕の発生を〈革命〉と呼べるのか、はっきりと理解することができる。

 第六章 アフリカ

1 多様なアフリカ文化

 (PP. 145-147)
 アフリカの農耕・牧畜の起源が大陸の北半分にあるのは意外ではない。その中でもかなり早い時期に発展したのは、今日よりも温和な環境であったサハラ砂漠における牛の家畜化だったかもしれない。サハラ砂漠東部では紀元前七〇〇〇年頃のことである。第二章で見たように、他からの影響を受けず、独自に家畜化が進められたに違いない。サハラ以北の地中海沿岸で広まったのは、時代はもう少し後になるが、中東型の農耕だった。サハラ以南のサバンナ地帯では北から家畜動物が持ち込まれたが、雨期が冬である北と異なり、夏が雨期にあたる地域では、植物はその土地で栽培できるようにした植物でなければならなかった。この地で農耕が定着したのは紀元前四〇〇〇年から同一〇〇〇年の間のことであったようだ。さらに南の熱帯雨林では、栽培化したヤムイモの耕作を中心とした農業の型が登場した。しかしアマゾン川流域と同じように農耕開始の年代についてははっきりしない。したがって、アフリカにおける農耕の発祥が、中東から伝播してきた結果であることをはっきりと示す例もあるとはいえ、たいていは刺激伝播の結果なのか、外からの影響なしに独自に発展したものなのか結論を下すのが難しい。これと対照的に、物質文化の面ではアフリカのサバンナの方に先取権があり、ここでは中東に先んじて紀元前九〇〇〇年頃には土器が作られていた(中東では紀元前七〇〇〇年頃)。
 アフリカ南部へ農耕が伝播した時期は北部よりもずっと遅かった。外部からの刺激の有無に関わらず、ここで独自に飼育栽培化が進んだという証拠はない。ある意味、このことは意外である。というのも、アフリカの東部と南部のサバンナ地帯は、更新世後期に現れた野生の草食動物が今でもかなり多く生息している、世界で唯一の地域だからだ。だが何らかの理由でどの種も家畜化に適さなかった。その代わりに北から家畜化された動物が入ってきた。これには二つの過程を伴った。すなわち、北の農耕民が南へ移住してきたこと、そして南でも、北で行われていた農耕を狩猟採集民が採用したこと、である。
 最初の過程の方がよく知られている。これは考古学と言語学の調査の結果証拠が得られた。~~。
 言語学が示す証拠は二つある。第一に、アフリカ南部の黒人によって話されているほとんど全ての言語が近接関係にあり、バントゥー諸語と呼ばれる一語派に属しているということ。サハラ以南のアフリカ諸国の間でも北部の情況はこれと全く異なる。~~。第二に、バントゥー諸語の源郷が、サハラ以南の北部地域、もっと正確に言えば、大西洋沿岸に近い北西部にあるという十分な理由がある。バントゥー語そのものの分化が一番進んだのも、またバントゥー語と最も近接した関係にある、非バントゥー系諸語が見つかったのもこの地方であるからだ。以上のことをまとめると、バントゥー諸語が北からアフリカ南部に入り込んだのは比較的最近、恐らくは過去二〇〇〇年以内であることをはっきりと示している。

超自然の媒介者

 

『「空気」の研究』 〔山本七平/著〕
 「あたりまえ」の研究 〔昭和 55 10 月 ダイヤモンド社刊〕

Ⅲ 国境を出れば

  中東を認識するために
 (PP. 310-313)
 「条約」と「契約」
 イスラエル・エジプト平和条約については、すでに新聞等でさまざまに解説されているので、それらと重複する解説は避け、その背後にある中東の社会構造と、それを基とした今後の展開への予想を記したいと思う。
 外国のことがわかりにくいのは当然だが、これが中東となると、さらに混迷を深めることもまた事実である。欧米と日本とは曲りなりにも一世紀以上の「付き合い」があるが、中東ともなると、翻訳したくてもそれに相当する定訳語さえない場合が少なくない。そのため、ある一語の解説だけで、数十枚の原稿用紙を必要とする場合もでてくる。
 イスラエルとエジプトの間に平和条約が締結された。条約とはいうまでもなく契約だが、この契約という言葉の意味が彼らとわれわれとでは違うということを、まず念頭に置かなければならないであろう。というのは、契約とはわれわれの間では相互の約束だが、彼らの間ではそうではない ―― 否、少なくともそうではなかった。この間のことは、お互いになかなかわかりにくい。「アラブ・ニュース」のユスフザイ氏が「シャーは神に追われた」という題名のイランのホメイニ革命の解説の中で、次のように説明しており、その点がよくわかるから引用させていただこう。
 例えば経済の分野、お金の貸し借りで説明すると ――、A さんが B さんから百円借りて事業を始めたとしよう。この事業が二十円の利益を生んだら A さんは B さんに十円だけ返す。三百円儲かれば、百五十円返す。つまり「利益の共有」である。反対に運悪く事業に失敗したときは、この次儲かったら返済致します、ということになる。これがイスラム式経済で、そこにあるのは、人間と神の間の契約、という物の考え方であり、日本に古くからある村落共同体における「付き合い」に、かなり近いように思える。そこへ西洋のやり方 ―― 人間と人間の間の契約 ―― が入ってきた。それはせいぜい百年前のことである……。
 ではここで、ユスフザイ氏のあげた三つを、イスラム型、西欧型、日本型と分けてみよう。イスラム型は神と人との間の契約だから、この契約の内容が A さんも B さんも同じであれば、いわば互いに神との間で同一内容の契約をしているなら、AB 両者間には相互の契約がなくても、結果において契約が成立するということになる。西欧型もかつては基本は同じだったといえるが、その社会が複雑になるとともに、神との契約の内容が相互に違えば、この関係が成り立たないから、互いに相手の神との契約を確認しなおすという形で、相互契約という形に進んだ。前の例をひけば、A さんは「利益の共有」という契約を神と結んでいる。だが B さんは「損益に関係なく返済を求める」という契約を神と結んでいたのでは、神との契約だけでは、両者の間に「結果としての相互の契約」が成り立たないからである。しかし、宗教的な契約、たとえば「宣誓」などではキリスト教会も昔のままであり、そこで「異教徒に宣誓の能力なし」という考え方がでてくる。これはイスラムの場合なら、異教徒に契約の能力なしであり、同一宗団内でないと、契約が結べない、いわば条約も締結できないという形にならざるを得ない。
 これが日本では全く違った形になっている。いわばすべて「相互の話合い」であり、もしここに「神」に類するものを持ち出すなら ―― たとえば「天地神明に誓って」というなら ――、それは、相互の話合いの順守を誓う保証人という形であっても、それ以外のものではない。したがって各人が各人の神=聖なる対象を持ち出し、それを保証人としてよく、いわば一方が神、一方が仏でもよいのである。これは多神教 ―― というより宗教混淆[こんこう] ―― が正統派である日本ではごく当然のことなのだが、外国人には逆にこれが理解できない。
 したがってユスフザイ氏のような誤解も生むわけだが、日本人もこれを誤解しているのである。このたいへんにおもしろい例として「南蛮誓詞」がある。転びキリシタンが、「転びました」と誓うときに、じつは、「デウスに誓って転びました」といわないと、幕府はこれを信用しなかった。というのは、「転ぶ」直前に誓うわけだから、そのとき「天地神明に誓って」といっても、その時点では「天地神明」の存在を信じていないはずだから、信用できないという論理である。ところがこれは一神教の側から見ればじつに不思議な論理で、そういう以上、その人間はデウスの存在を信じているから、「転んだ」ことにはならないはずなのである。ところが日本では、こうしない以上「転んだ」ことを認めなかったわけである。
 以上のように、契約 ―― もちろん条約もこの一つだが ―― という言葉一つを取っても、三者の定義はそれぞれ違うといわねばならず、中東を理解するうえで最もむずかしいのはこの点である。だが同じ中東といっても、レバントはまた少々別だということも考えねばならない。イスラム教圏という言葉は、キリスト教圏と同じような広い範囲を示す言葉で、同じキリスト教圏といってもその中の国々が千差万別だといえるように、イスラム教圏はもちろん「一枚岩」ではない。このうち、ある種の特色を備えているのがレバントである。ではいったいレバントとはどこを指すのか。これは大体、東地中海に面する中東の国々、レバノン、シリア、パレスチナ地方のことで、中東というよりむしろ地中海圏に属する地方を示す言葉である。そして文化的にはエジプトもこれに属すると考えた方がよいのであろう。この地方との付き合いが古いヨーロッパには「レバント人」という言葉があり、レバンタリゼイションという言葉もあるが、これが日本語にはない。レバンタリゼイションとは、西欧から移住したユダヤ人の「現地化現象」を意味する言葉だが、訳語がないので私は一応「中東化現象」と訳している。厳密にいえば〝誤訳〟かもしれない。そしてレバント諸国とエジプトとの間にはある種の、他とは違った地域的共通性があることも否定できない。となると、エジプトとイスラエルが単独で条約を結んだことも不思議でなく、しかもそれが、今回がはじめてでないことも、当然なのかもしれない。

 

先土器新石器時代・西アジアの「肥沃な三日月地帯」

 

『古代文明アンデスと西アジア 神殿と権力の生成』 〔関雄二/編〕

序 章 アンデスと西アジア

関雄二 [せき・ゆうじ]
   1 なぜアンデスと西アジアか
 (P. 8)
 ~~ここで「西アジア」について断っておく。この概念は、以前から日本の研究者が使用してきたものの、まだ馴染みのない表現かもしれない。従来の中東やオリエントという名称が、ヨーロッパから眺めたときに有効であり、そこに西欧中心主義の臭いをかぎとった日本人研究者が、アジアの西部という中立的な表現に置き換えることを提唱したのである。編者もこれに同意し、本書では西アジアという表現を使用する。
   2 西アジアの古代文明
 (P. 11)
 ~~。およそ一万一五〇〇年前の更新世の末ごろを境に、新石器時代を迎える。時代の区切りは、新しい石器の組み合わせの登場を基準とするよりも、初期農耕村落の出現という生業面に基準を置く場合が多い。新石器時代は、石器などの遺物の変化と土器の有無をもって、先土器新石器時代 A PPNA = Pre-Pottery Neolithic A 、前九六〇〇~前八五〇〇年ごろ)、先土器新石器時代 B PPNB 前八五〇〇~前七〇〇〇/六八〇〇年ごろ)、そして土器新石器時代(前七〇〇〇/前六八〇〇~前五三〇〇/前五〇〇〇年ごろ)の三つに細分される。新石器時代は、農耕と牧畜の始まった時代である。とくに農耕はヨルダン渓谷南部からユーフラテス川中流域が発祥の地とされ、先土器新石器時代の末には西アジア全体に広まった。西アジアでは土器の登場は、生活様式を大きく変貌させる要素にはならなかったようだ。
 これに続く銅石器時代(前五三〇〇/前五〇〇〇~前三〇〇〇年ごろ)に入ると南メソポタミアを中心に都市が誕生し、その中核に神殿も建設された。王権はまだ確立していなかった。いずれにしても西アジアの都市は、世界で最も古いことで知られる。都市は物資の交換が行われる場でもあり、輸送の統御で用いられる封泥用の印章は、やがて楔形[くさびがた]文字を生み出したとされる。

 

 (PP. 13-14)
 農耕が社会変革の源であるとする見方にはかなり長い歴史がある。啓蒙主義が隆盛した一八世紀において、ジャン=ジャック・ルソー (Jean-Jacques Rousseau) は著書『人間不平等起源論』において農業(コムギ)と冶金[やきん]術(鉄)の発達を契機として、私有財産の観念が生まれ、土地の囲い込みが始まり、人間は農耕により資産の蓄積が可能になり財産の不平等性が顕在するようになったと説いた。農業を行うためには、他人に侵犯されない私有地が必要となり、そのための私有の観念も発達する。そうして守られた土地での農業によって恩恵を受ける者が、受けない者からの侵略を防ぐためには団結が必要であり、これが法や社会組織の発展を促す。ここには、農耕と社会成層化の連関を看破した彼のすぐれた嗅覚を感じ取ることができる。
 一九世紀末に進化主義が登場すると、ルソーの見方はさらに理論武装されることになる。人類史を野蛮から未開へ、そして文明へと移行したとする文化進化論が幅をきかせるようになり、その見方を採用した思想家のフリードリヒ・エンゲルス (Friedrich Engels) らの著作を通じて、マルクス主義的唯物論が広まるからである。そこでは、農耕と牧畜、いわゆる食糧生産経済こそ性的・社会的分業の形を変え、階級を成立させた根源と位置づけた。

1  西アジアにおける神殿の出現

三宅裕 [みやけ・ゆたか]
   1 西アジアの神殿
 (P. 49)
 ~~。西アジアにおいて土器の製作が一般化するのは、日本列島をはじめとする東アジアと比べると大きく遅れ、前七〇〇〇年ごろである。このころすでに農耕・牧畜に基盤を置いた社会が成立しており、土器の出現は食糧生産の開始よりも大きく遅れることがわかっている。
 そして、新石器時代の前半に当たる先土器新石器時代は、さらに A 期と B 期の二つに細分される。先土器新石器時代 A 期の始まり、すなわち新石器時代自体の始まりは、いまのところ地質年代上の完新世の始まりとほぼ同時であったとされている。ヤンガー・ドリアス期(前一万七〇〇~前九六〇〇年ごろ)と呼ばれる最終氷期後の再寒冷期が終焉し、現在まで続く比較的安定した温暖期に移行するころ、考古学的には新石器時代が始まる。そして、大枠では先土器新石器時代 A 期は住居の形状が円形で打製石器が小型である時期、先土器新石器時代 B 期は住居が矩形に変化し尖頭器などの石器が大型化する時期とされている。
   5 新石器時代の社会と「神殿」
 (P. 85)
 興味深いのは、先土器新石器時代 B 期の後半になって農耕・牧畜を基盤とした社会が確立されると、むしろ集落の規模は縮小し、整然としていた集落構造が崩れ、公共建造物も姿を消してしまうことである。~~、先土器新石器時代の最終期になると(「大部屋建物期」)、公共建造物は見あたらなくなり、広場ももはや維持されなくなってしまう。もちろん、この時期にはギョベックリ・テペ遺跡に匹敵するような祭祀センターも確認されていない。それまでの社会を統括していた原理が失われてしまったかのように見えるこうした現象は、「新石器時代の崩壊」とも呼ばれている。

 

The End of Takechan

 

『ヒューマン』  NHK スペシャル取材班/著〕

 

3  耕す人・農耕革命

 

~未来を願う心~

浅井健博
世界最古の宗教施設 ギョベックリ・テペ遺跡への旅

 

 (PP. 223-224)
 旅は、文明の十字路と呼ばれるトルコのイスタンブールからはじまる。
 ~~。
 そのイスタンブールから、飛行機を乗り継いでシリアとの国境に近いシャンルウルファという町に向かった。飛行機の窓からは見渡す限りの豊かな農地が見える。暑い盛りを過ぎ、安定した 9 月の穏やかな空には、何千匹もの羊のような雲が東から西へと流れていた。もともとはウルファという町の名前だったが、第一次世界大戦で独立を勝ち取った際、英雄を多数輩出したことから、町の名前にシャンルがついた。直訳すれば、「評判のよい」という意味だから、「偉大なるウルファ」とでもいおうか。メソポタミア文明の発祥の地でもあると地元の人は自慢げに話していた。
 ウルファの町からは車で 30 分。ようやく目的地に到着した。標高は 800 メートル。ハラン平原北端の周囲を 360 度見渡すことのできる丘の上だ。考古学には素人の私でさえ少し興奮してしまう。
 日本を出発する前、筑波大学の人文社会系で、西アジアの考古学を専門に研究するチームにレクチャーを受けた。研究者たちの形容はただ事ではなかった。常木晃[つねきあきら]博士はこの遺跡のことを「あれは超弩級[ちょうどきゅう]。衝撃的です」と表現した。三宅裕[みやけゆたか]博士は「とてつもない遺跡です。大変なことです」と言った。研究者たちを唸[うな]らせるほどの遺跡がもうすぐそこにある。
 駐車場からしばらく歩くと、巨石群が間近に迫る。~~。これが世界最古の宗教施設ともいわれるギョベックリ・テペ遺跡なのだ。
 そう、この時代を語る出発点として、どうしても訪ねたかったのはこの遺跡だった。
 研究者の注目も熱い。「超弩級」、「とてつもない」といった形容が飛び交ったのも、この遺跡がそれまでの考古学の常識を吹き飛ばし、まったく新しいストーリーを示唆しているからだ。
 そして、そのストーリーは、農耕革命と深く関わった私たちの心の進化をたどるのに欠かせない。つまり、「ヒューマン第 3 集」はこのギョベックリ・テペ遺跡抜きにははじまらないのである。
 到着した私たちのところに、ターバンを巻いてサングラスをかけた恰幅[かっぷく]のよい老人が近づいてきた。彼こそ、この遺跡に光を当てたドイツ考古学研究所教授のクラウス・シュミット博士だ。~~。

 

 (PP. 225-226)
 この遺跡の重要性が指摘されたのは、1994 年にシュミット博士がこの地を訪れてからであった。翌年から発掘調査を開始。現在まで毎年つづけられている。
 遺跡の年代は、1 1600 年前~ 1 800 年前頃とされている。先史時代の遺跡の年代測定にはふたつの方法がある。ひとつは遺跡で発見した道具をほかの遺跡で発見した道具と比較して、同時代のものか、どちらが古いか新しいかを確認する「相対年代決定」法だ。絶対年代を知るためには、自然科学の力が必要で、放射性炭素年代測定がもっとも重要な方法になる。こうした調査から年代は特定されている。
 この、およそ 1 万年前という時代がまず重要だ。巨大な遺跡はこののち、どんどん増えていくことになるが、1 万年も前のものとなると、ほとんどない。第 2 章までで紹介した遺物は、洞窟[どうくつ]に埋もれていた貝殻とか、石とか、あるいは、壁に描かれた絵というレベルのものだった。ここに至って、まさに巨大遺跡と呼ぶにふさわしいスケールを帯びはじめていく。
 しかも、丘全体に広がるギョベックリ・テペ遺跡は、町の跡というわけでもない。そこで人が生活していたような痕跡[こんせき]がないのだ。大量の石器やたくさんの動物の骨が出土しているが、そのなかに家畜種といわれるものはまったく存在しない。数少ない植物の痕跡からも農耕が行われていた証拠は見つかっていない。
 こうした状況から、ギョベックリ・テペ遺跡は定住場所ではなかったとされているのだ。
 では、この巨大遺跡は何のための場所だったのだろうか。

 

 (PP. 228-229)
 シュミット博士は自身の意見を簡潔に述べてくれた。
「現在のところ、葬式のために建てられたというのが私たちの仮説です」
 なぜそう考えるのだろうか。
「幾つかの観察で分かったのは、柱に描かれた浮き彫りが生活の様子を表現しているのではなく、冥府[めいふ]の恐ろしいシナリオを表現していることです。頭の付いていない人間やハゲワシがいます。キツネやイノシシのような動物もたくさんいて、少し脅威的です。これらのシナリオは現実の世界ではないという印象を受けます。よって、葬式のために描かれたと考えたのです」
 無論、博士たちは断定しているわけではない。ただし、非日常的な施設である以上、一種の儀式に使われたものだろうという点は確実だと考えている。

 

 (PP. 230-231)
 ギョベックリ・テペ遺跡とはどうやら、非日常の施設であり、葬式など儀礼のための施設であるとともに、広い地域に住む人々が集団の枠を越えて共同で利用する施設でもあったのだ。
 このようにみてくると、ひとつの言葉に収斂[しゅうれん]していく ―― 世界最古の宗教施設。
 そう、ギョベックリ・テペ遺跡は、宗教的な施設として世界最古のものではないかという議論が沸き起こっているのである。
 この点を、発掘の責任者であるシュミット博士自身はどう思っているのだろう。
 ~~。
 単刀直入に聞こう。ギョベックリ・テペ遺跡は世界最古の宗教的な施設なのか。
 博士は慎重だった。
「宗教的な意味合いを持った遺跡ということならば、もっと古いものがあります。たとえば、アルタミラやラスコーの洞窟もそうです。後期旧石器時代の遺跡ですから、ずっと前にさかのぼります。このほかにも、ヨーロッパやイランで発見された洞窟で、神聖な場所とされている例が多く発見されています」
 では、ギョベックリ・テペ遺跡は何が新しいのか。
「ギョベックリ・テペは人々が自然を利用して造ったものです。自然が背景にありますが、そこに人々はさまざまな手を加えました。それが特徴です。先行する洞窟は自然の力でできたものです」
 確かに、巨大な石柱がグルリと取り囲むようにつくられた構造は、周りの景観のなかで圧倒的な存在だ。そこには、秘[ひそ]やかなる場所である洞窟とは正反対にも思える、堂々たる自己主張が感じられる。
 じつは、この積極的な人間の関与という特徴は、ギョベックリ・テペ遺跡がもつ際立った特徴である。ここでは、ラスコーのような後期旧石器時代の洞窟とは違って、初めて人間のモチーフがこの世界のなかで上位にあるというのだ。

 

 (P. 232)
「古代の宗教は、西欧の一神教をはじめ、現在の主な宗教とは類似していなかったでしょう。私は宗教研究の専門家ではありませんが、その分野の専門家は宗教史の再構成を試みています。その研究によれば、多くが精霊信仰を起源としています。古代の宗教はそれに類似している可能性があるでしょう。万物に生命力がある。一つの石にも魂がある。このような精霊信仰が背景にあったことは予測できます」
 そこからの大転換がギョベックリ・テペ遺跡の背後にある。
「すべてが平等である精霊信仰の世界から人間のような生き物が上位につくような宗教がはじまったのは、人類の歴史で初めてのことだと認識できます」
 こうした博士の慎重な、しかし、きわめて説得力に富む説明とは別に、「世界最古の宗教施設」というキャッチフレーズはすでに堂々と流布されている。

人類同士の激しい戦いの始まり

 

 (PP. 234-235)
 夜遅くイスタンブールのアタテュルク国際空港を飛び立った飛行機は、東へと進路を取った。向かう先はイラク北部の都市エルビルだ。
 ~~。イラク国内は治安が安定せず、ほとんどの地域が外務省から「危険度 4(退避を勧告します。渡航は延期してください)」に指定されている。しかし、北部のクルド自治区は比較的治安が安定している。エルビルはクルド地域政府などの主要施設が集中しているため、市の出入り口に当たる幹線道路には検問が敷かれ、警備体制が厳重になっている。エルビルだけは例外的に「危険度 2(渡航の是非を検討してください)」になっているため、国際ニュース担当部署のフォローを受けて入国が実現した。しかし、無論、油断は禁物。いやが上にも緊張は高まる。
 ~~。
 エルビルでの撮影の目的は、ある遺跡にあった。人類最古の戦いの跡といわれる遺跡。その遺跡と、そこから発掘された遺物を撮影することだ。
 トルコからイラクへの旅は、最古の宗教的施設から最古の戦いの遺跡への旅だったのだ。
 遺跡の名はネムリク遺跡。エルビルからほど近いダフーク地区にある 1 5000 年前から 9200 年前の遺跡だ。1985 年から、ステファン・コズウォフスキ博士を中心とした、ポーランドのワルシャワ大学チームが発掘した。遺跡の広さは 1.8 ヘクタール。チグリス川を見下ろす山の中腹にその遺跡はある。住居や、それを囲む壁、そして村の南側には墓地も発見されている。おそらく定住はしていたが、まだ狩猟採集が中心だったころの遺跡だと考えられている。

 

 (PP. 236-237)
 私たちが人類最初の闘争の地としてイラク北部に誘われたのは、ある研究者との出会いがきっかけだった。アメリカのラトガース大学のブライアン・ファーガソン博士だ。
 博士は人類学教授で、戦争の起源や 19 世紀以降のニューヨーク市の組織犯罪、ギャングの発展史などにも詳しい。
 いつから人類同士、ホモ・サピエンス同士の戦いがはじまったかということについては、さまざまな説がある。いままで優勢だったのは、ホモ・サピエンスの歴史がはじまったときから、集団間の戦い、つまり、戦争があったとする意見だ。
 イリノイ大学シカゴ校のローレンス・キーリー博士は、暴力の考古学的な事例を著書にまとめ、人類はつねに戦争を引き起こしていたという説を唱えた。ハーバード大学の考古学者スティーブン・ルブランも著書のなかで、優れた考古学的証拠が存在するところには、「ほとんどつねに」戦争があったことを示す証拠が存在すると指摘し、「どんな時代にも、誰もが戦争をしていた」と主張した。
 しかし、ファーガソン博士の考え方は違う。戦争が行われたことを示すという考古学的証拠はどういうものかを改めて検証した結果、本当の争い事はもっとのちの時代になってからではないかと提唱しているのだ。
 それは、およそ 1 万年前だという。
 どんなものが戦争の証拠になるのだろうか。もっとも優れた証拠は、暴力の証明となる痕跡を残した骨だ。槍[やり]、矢、そのほかの武器の先端部が刺さった骨、頭蓋骨の陥没骨折や頭皮をはぎ取った痕[あと]のほか、前腕の骨折も有力候補に入る。前腕の骨折は、攻撃をかわすために生じたケースが多いのだ。

 

 (P. 238)
「私の見解では、最古の戦争はイラク北部、現在のモスル付近で起こりました。これは、世界中の証拠を検証した結果です。モスル付近には、三つの遺跡があります。ケルメズ・デーレ、ネムリク、そしてムレファートです。イラク北部のこの地域では、1 2000 年前から 9000 年前のあいだに確実に部族間同士の戦争があったと言えると思います」

なぜ人は戦うのか パプアニューギニアの旅

 

 (PP. 242-243)
 パプアニューギニアは世界で二番めに大きな島であるニューギニア島の東半分を占める。日本の 1.25 倍という国土に 500 の民族が存在する。しかも、800 の言語がある。その民族間でいまも激しい闘争があるのだ。

 

 (P. 244)
 遺伝子の調査によれば、アフリカを出た人類のうち西へ進んだグループと、東へ進んだグループがいる。東へ進んだうち、海岸線をたどったグループは東南アジアに到着し、その後オーストラリアへと渡っていった。~~。
 しかし、オーストラリアまで行かず、途中でパプアニューギニアにとどまった人たちがいた。その子孫が彼らなのだ。閉ざされた島のなかで、昔ながらの独自の文化を守りつづけてきた。
 彼らはどうやって暮らしているのだろうか。
 昔ながらの暮らしというと、狩猟が中心と思いがちだが、意外にも農業が浸透している。しかし、農耕民なのかというと、戸惑う。彼らの栽培は、私たちが慣れている農業とは随分と趣が違うのだ。彼らの農業は、根栽農業といわれる。農業の形態としてはもっとも古いもののひとつとされている。

 

 (PP. 245-246)
 こうした根栽農業は、1 2000 年前頃に東南アジアの湿潤地帯においてはじまったという。マレーシアを起源とするという研究があるそうだ。島嶼[とうしょ]部に広がり、サトウキビやタロイモ、ヤムイモ、バナナなどを主に栽培する。穀物は取り入れないのが根栽農業の特徴だ。小麦の西アジア、米の東アジアとは一線を画しているのだ。

 

 (PP. 249-250)
 なぜ人々は戦うのか。
 1 万年前に戦いの起源があるとするラトガース大学のファーガソン博士は「まだ明確な答えはみつかっていない」としながらも、闘争がはじまった前提条件として「ひとつは定住性だ」と語った。
 定住。1 か所に住みつづける選択が戦いを生む条件のひとつになったというのだ。
 以前なら、狩猟採集民=移動、農耕民=定住という図式で語られていたが、いまは違う。農耕に先立って定住性が強まっていったとされている。
 ファーガソン博士が「戦いの母」と称したケルメズ・デーレやネムリクに住んでいた人々は、人類学的には狩猟採集民だ。彼らには栽培化した植物もなく、家畜化した動物もない。彼らは出かけていって自然から食料を得て生活している定住性狩猟採集民だったのだ。
 このような人々のあいだで、非常に激しい戦争が起こるケースが多いのだという。
 さらに、ファーガソン博士は「これは証拠があるわけではない」と前置きしたうえで、定住以外の可能性も指摘してくれた。
「ひとつは生態や環境が関係します。今も残っている世界中の定住性狩猟採集民が戦争をするとき、頻繁に見られる傾向があります。資源の豊富な地帯に人々が住み、その周りのあまり恵まれていない場所にも人が住んでいるとします。痩[や]せた土地に住む人々が豊かな土地に住む人々を追い出そうとした事例が数多く起こっています。ネムリクとケルメズ・デーレは特に資源が豊富な地域です。ほかの人々は彼らに代わって、自分たちが住みたいと思ったかもしれません」
 交易が関係している可能性もあると博士はいう。
「古代の交易は、価値ある物が地理的に限られたルートに集中していました。古代の多くの戦争は、交易ルートが支配できる場所を制覇しようとして起こっています。ケルメズ・デーレの人々の飛び道具の矢尻の原料は、他の地域の物です。この種の交易が行われていたとすると、それは、人々にその場所を制覇したい気持ちにさせる誘因になります」
 三つめの理由もある。
「これは私たちの家、これは私たちのものという概念です。彼らには頭蓋骨を床下に埋める風習がありました。それは人々がその場所を自分たちのものと示す方法の一つです。周囲の人々に、この地域は私たちのもの、私たちはそれを手放さないと意志表示をしているのです」
 ミシガン大学アナーバー校の人類学者レイモンド・C・ケリーは、その著書『戦争のない社会と戦争の起源』のなかで、戦争の起源としてもう一つ重要な要素があるかもしれないことを指摘している。
 戦争をする狩猟採集民族と戦争をしない狩猟採集民族を比較した民族誌学的文献を調べていて、彼はひとつのパターンを発見したという。戦争をしなかったことが分かっている幾つかの狩猟採集民族の社会では、社会組織は家族を超えたものにはなっていなかった。親族が緩やかで柔軟なネットワークを築いていた程度だったのだ。それと対照的に、戦争をしていた狩猟採集民族の社会はより大きく、定義がよりはっきりしたグループ分けをしていた。このことから博士は、境界線がはっきりしたグループの存在は、集団が傷つけられたという感覚を強め、集団として報復をしたいという欲求を強めると指摘している。

 

 (PP. 251-253)
 ひるがえって 1 万年前の時代に、このことは当てはめられるのだろうか。
 訪ねたのは、筑波大学の人文社会系教授の常木晃博士だ。西アジアを中心に先史時代の研究に取り組んでいる。農耕の始まりから都市文明の形成までのプロセスを解明することがテーマだ。シリアやイランでの発掘を積極的に行っている。
 浅黒い肌にターバンがよく似合う。いつも笑顔だが、舌鋒[ぜっぽう]は鋭い。特に関心のあるテーマになると情熱的にその研究内容を語ってくれる。
 ~~。
 まずは 1 万年前頃の西アジアの環境変化について常木さんに聞いてみた。
「基本的には非常に寒く乾燥している氷河期が終わりに近づいて、徐々に温暖湿潤化してくる時代ということになります。温暖湿潤化することによって、いままで草原や非常に乾燥した環境だったところにだんだん草が生えてきて、そして森林が、日本みたいに深い森林ではないですけれども、あちらこちらにでき上がってくることによって、その森林のなかでの定住生活がだんだん強まってくるのです」
 いきなり出た。「定住生活」というキーワードだ。
 現在の西アジアは多くの場所で開発や過放牧によって自然の植生が失われているが、じつは本来、緑の多い地域なのだそうだ。
 現在より 6~8 度気温が低く厳しい乾燥がつづいていた最終氷期の最寒冷期( 2 2000 年~ 2 万年前)には西アジアの大部分に草原や砂漠が広がっていた。わずかに東地中海沿岸のレバント南部地域(現在のイスラエル)にのみ、林や疎林帯が南北に延びていた。
 ところが、最終氷期が終わりに近づいた 1 4000 年前以降、徐々に温暖湿潤化が進行し、レバント南部で本格的なオークの森林帯が出現する。レバント北部では疎林帯ができはじめる。
 8000 年前頃になると、現在と同じ気候となり、レバントは森林に覆われ、タウロスからザクロス山脈にかけて(現在のトルコ南部から北イラクにかけて)、疎林帯が広がる。
 当時の植生を想定すると、レバノン山脈より西の地中海沿岸では、常緑広葉カシ・ピスタチオ・オリーブ・イチジクなどの灌木[かんぼく]類を主とした森林が広がり、高度を上げるにつれて、マツ・イトスギ・レバノンスギを主体とした森に変わる。レバノン山脈の東麓[とうろく]から内陸にはいると、カシやピスタチオの林が草原のなかに点在する疎林帯となり、さらに内陸に、ヨモギ属、アカザ科を主体とした草原 ―― 砂漠植生に変わっていく。
 私たちの祖先は、それまで辛[つら]く過酷な寒い時代を生き延びてきた。間氷期への移行は、人類にとってようやく訪れた願ってもない好機だったに違いない。暖かく穏やかな気候。そこは、果実がたわわに実り、生き物が乱舞する楽園だった。
 ここで、それまで数万年にわたって人類が旨としてきた生活スタイルが大きく変わる。移動しながら獲物を求める狩猟採集の生活から、ひとつの場所に留[とど]まる定住スタイルへと変化するのだ。豊かになったために、ひとつところに落ち着いても生きていけるようになったというわけだ。
 その頃の様子を常木さんはこう説明してくれた。
1 年間に何回も移動するような生活ではなくて、1 年を通じて同じ場所に住みはじめる。そうすると、徐々に社会も大きくなり、社会の構造も変わっていくのです。おそらく、さまざまな定住社会があるんですけれども、定住社会のなかでも環境が悪くなれば、またすぐに遊動的に戻るような社会ももちろんあります。そうではなくて、環境が少しぐらい悪くなっても定住をつづけようという社会もあります。定住をつづけようという社会においては、より自分たちのテリトリーが大事になってくると思います。やがてテリトリー同士のあいだで、領域の争いが徐々に起こってくる環境ができ上がっていったのだと思います」

ギョベックリ・テペに込められた希望とは

 

 (P. 267)
 ギョベックリ・テペ遺跡のそばにあるのは、戦いの母である三つの遺跡だけではない。じつはもっと近い位置に思いがけないものがあった。
 カラジャダー山である。
 馴染みのないこの地名は、私たちにとってもっとも身近な植物のひとつが自生していた原生地だ。その植物とはコムギである。
 シュミット博士はその方角を指差しながら、教えてくれた。
「コムギの原産地のカラジャダー山はこの方向、ここからわずか 60 キロの場所にあります。そして、きわめて初期の農耕遺跡も、この周辺から見つかっています。当時、この地域でもっとも重要なイノベーションといえば、植物の栽培化と動物の家畜化なのです」

宗教が農業を生んだ?

 

 (PP. 279-283)
 じつは考古学の世界では、狩猟採集社会から農耕社会への移行について、大いなる見直しが進んでいる。以前は、その移行は必然だと考えられていた。不安定な狩猟採集から、安定的な農耕に移るのは、歴史が進めば当然起こるべき「進歩」だというわけだ。農耕をはじめるに十分な知恵がつけば、誰でもそちらを選択するはずだという理屈である。
 ところが、最近になって「どうもそうではないらしい」と考える研究者が増えている。
 見直しを促したのは、農耕に移るのにかなり長い時間が必要だったらしいという実態がみえてきたことだという。
 私は再び筑波大学を訪ね、そのことを常木晃博士に問うた。
「最近の考古学的な調査で、そこから出てくる植物や動物の痕跡を調査する研究者の意見では、基本的にはかなりの長い期間をかけながら、徐々に農耕がはじまっていくということになると思います。いままでは、いきなり農業社会ができ上がったというイメージもあったのですが、どうやらそうではなさそうなんです」
 その期間は、一万数千年前から 8000 年ぐらい前までのあいだというから、じつに数千年間という歳月をかけた移行だということになる。
 農耕社会への移行にこれほど時間がかかったとすれば、なぜ農業がはじまったのか、その理由についても、まだまだ議論が必要だということになる。
 そもそも、以前の歴史の教科書では、狩猟採集から農耕へと移るにしたがって、定住化が起きたとされていたが、すでにその順番は逆転している。1 3000 年前以降、ナトゥーフ文化(現在のパレスチナの辺り)を中心に最初の定住ははじまっていた。狩猟採集を行いながらも定住が可能になったのだ。
 定住をはじめた私たちの祖先がさらに、農耕へと移行したのはなぜなのだろう。
 これまで、農業の始まりを扱った番組では、環境変動が影響しているという説がよく紹介されてきた。これまでの考古学では、農耕開始の直接のきっかけになったのは、1 1000 年前から数百年間つづいたヤンガードリアス期の気候変化であると考える研究者が多かった。いったん暖かくなった後、また急激に一時的な気温低下が訪れたために食べるものが不足してやむなく農耕が開始されたというのだ。
 ヤンガードリアス期をきっかけにして農業がはじまったという説はいま、どう考えられているのだろうか。常木さんに聞いてみた。
10 年くらい前まではそういう考え方が主流でした。間氷期に入って、温暖湿潤化するのですが、ヤンガードリアスといわれる〝寒の戻り〟があって、環境が悪化してしまう。その環境の悪化を農耕という方法で人間が生き残っていったと考えられた時期もあったんです。しかし最近になって、どうもそうではなさそうだということが分かってきました。ヤンガードリアスの前にも農耕の試みは行われていたようですし、ヤンガードリアスが終わったあとも農耕が徐々に起こってきているので、ヤンガードリアスをきっかけにして農耕が一気にはじまったと考えるのは難しいのです」
 ~~。
 しかし、だとすれば、なぜ彼らは、数千年もかけて農業を完成させる方向へと歩んでいったのだろうか。その出発点になる動機は何だろう。
 常木さんは、最近になって注目されはじめたひとつの説を紹介してくれた。
「もちろんバックグラウンドとしては定住化が非常に進んだということがあるとは思うんですけれども、それだけでは説明がつかないわけです。定住化が進んだことで、人々のあいだにさまざまなことが起きたでしょう。たとえばコミュニティがより大きくなっていくということもあったはずです。そうしたなかで、メンバーのなかでさまざまな心の変化が起こって、その大きなコミュニティを維持するために農耕的な生活が起こってくるというようなプロセスが考えられるのです」
 心の変化という、思いがけない単語が飛び出した。しかし、考えてみると、確かに心の問題という曖昧[あいまい]な理由なのかもしれない気はする。農耕をはじめたとしても、すぐに利益があるわけではない。農耕生活のほうが安定的で、気楽で、おいしいものが確保できるというわけではないのだ。狩猟採集から農耕へという移行は、少なくとも知恵の選択というわけではない。確かな見通しに立った計算というわけではないのだ。
 では、より具体的にいえば、その心の変化とは何だろう。もっと意外な単語が飛び出した。宗教、のようなものというのだ。
1990 年代にフランスの考古学者が最初に提唱しはじめて、最初のうちはみんな首を傾げる感じだったのですが、どうもそれもあるんじゃないかと考え方が変わってきているんです。その変化の理由は、考古学的な発掘調査が進んだことです。出てきている遺跡の状況などを考えていきますと、何か組織的な宗教みたいなものが先に起こってきて、宗教を維持していくというか、その宗教をするために人々が集まってきて、そして少し大きな社会ができ上がってきて、その大きな社会を維持するために農耕をはじめたのではないかというふうに考えられるのです。そんなふうに考えないと、どうも農耕の始まりがうまく説明できないのではないかというような状況があるのです」
 現在の証拠からすると、紀元前の九千数百年ぐらい前から八千数百年くらい前までの 1000 年間ぐらいのあいだは、人々がさまざまなところに巡礼をしたり、組織的な信仰システムみたいなものをつくり上げていく時代なのだという。
 この時期はまさに農耕の黎明期[れいめいき]に当たる。栽培化をじわじわと進めている時期だ。つまり、いまだ農耕の見返りが実感できない時期ということもできる。
 その期間に信仰システムの遺跡らしきものが出現する。しかも、不思議なことに、そのシステムはそのあともずっとつづいていくかというと、決してそうではない。その時代に特有な現象として、その時代に限って非常に強く考古学的な証拠として現れてくるのだ。
 つまり、農業の黎明期の 1000 年間と、信仰的な雰囲気が強い時代が合致しているのだ。常木さんはこうつづけた。
「定住生活がどんどん強まっていって、巡礼を行いながら人々が社会としてさまざまにまとまっていくような社会、そのときに宗教というのが非常に重要な役割を果たしていた、信仰というのが非常に重要な役割を果たしていたと思われるんですね。その宗教施設にたくさんの人々が集まってくるようなことが、農耕にもかかわってくる、農耕の発生にもかかわってくるのではないかというふうに考えていいのではないかと思うのです。鍵になるのはギョベックリ・テペ遺跡です」
 思い出してほしい。ギョベックリ・テペ遺跡は集会の行われる情報センターという役割の一方で、異様な石柱を並べた宗教的な施設という一面をもっていた。
 ~~。
 私たちは宗教というと、組織があり、対象となる神があり、きちんとした教典があるのではないかと想像してしまう。しかし、そこまで組織だったものでないとしても、同じ祈り、同じ願いを共有し、同じ大地の恵みを共有するもの同士の連帯感を確かめ合う儀式のようなものがあったのかもしれない。
 そんな集団が利益のためというより、集団のアイデンティティに関する行為として、特定の植物を大事に栽培するということをはじめたのかもしれない。そういう仮説が真剣に議論されているのである。
 ここで、「お祭り説」がひとつの光を当てる。
 お祭り説は、「お祭りに使う食材が栽培化を経て、人々の主食へと発展していった」とする考えだ。そのお祭りこそ、宗教的な儀式だった可能性はある。宗教とはいえないまでも、民族を超えた集まりは、アルコールが入れば、まさにお祭りの様相を呈するはずだ。

黒海の洪水説 こうして農業は拡散した

 

 (PP. 310-311)
 農耕・牧畜を成功させた人類の歩みは順風満帆だったかに見える。しかし、その後、思わぬ落とし穴が待ち受けていたという説がある。オーストラリアのニューサウスウェールズ大学気候変動研究センター教授のクリス・ターニー博士の説をご紹介しよう。
 西アジアで生まれた農業が、その後どのようにして各地に広がっていったのか。ターニー博士は、農耕の痕跡のある遺跡を洗い出す作業を行った。
 初期の農業は、西アジアといっても、実際はイスラエルやレバント地方に限られていたことが分かる。それが徐々に西へ広がり、約 1 万年前までにキプロスやギリシャ、ヨーロッパの南東部までに至る。しかし、そののち、拡大速度はゆっくりになる。農業活動はヨーロッパ南東部に留まったままになるのだ。
 そして、8400 年前頃、突然、ヨーロッパに大規模な農業の波が押し寄せる。初期農耕遺跡の広がりを示した図を指しながらターニー博士はこう説明した。
「ヨーロッパへと農耕民の大移動があったのです。主に沿岸部とヨーロッパの内陸部に広がりました。農業の広がりに驚くほどの変化がありました。そして 5000 年前には、ヨーロッパの大部分に農業が広がっていました」
 急激に農業がヨーロッパ全体に広がっていくおよそ 8400 年前。
 いったい、その頃に何があったのか。ターニー博士はひとつの仮説に注目している。
 黒海の洪水説だ。

 

 (P. 312)
 2 万年前の最終氷期を経て地球は温暖な時代へと向かう。この温暖化が第 3 章の物語のすべての始まりだった。ある見方をすれば、温暖化が、人類に農耕牧畜という福音をもたらし、その後の成功に導いたともいえる。しかし、その恩恵にはしっぺ返しがあったのだ。
 氷河期ののち、氷河は融[と]けて後退し、海に流れ込んだ。海の水位は平均すると約 130 メートル上昇したと考えられる。その水が、地中海からマルマラ海に流れ込み、さらに黒海に流れ込んで、現在の姿を形成したというのが概要だ。
 ターニー博士は、その黒海の洪水が農業の拡大に大きな役割を果たしたと考えているのだ。

4  交換する人・そしてお金が生まれた

 

~都市が生んだ欲望のゆくえ~

居石麻里
現代社会へとつづく繁栄の原点

 

 (PP. 321-322)
 ~~、この章のテーマは、繁栄が人類の心をどう変えたか、ということだ。そして、とりもなおさずそれは、いまも繁栄を求めてひた走る、私たちを知ることにもつながる。さらに言えば、将来、人類がどのような方向に向かうのか、についても。
 最初に訪れることにしたのは、古代文明の始まりの場所だ。その場所はすなわち、現代へとつづく繁栄の第一歩を祖先が歩みはじめた地点ともいえる。
 人類初の文明、メソポタミア文明の発祥地、「肥沃[ひよく]な三日月地帯」。そのほぼ中央に位置するシリア北東部には、いまからおよそ 6200 年前の紀元前 4200 年頃、すでに都市が栄えていた。これが、現在知られている限り、世界でもっとも古い都市といわれている。この都市の発見は、従来の都市の起源を 1000 年さかのぼる大発見であったため、都市の成り立ちを知るための貴重な遺跡として、世界中の研究者の熱い視線が注がれている。
 その遺跡の名は「テル・ブラク」。
 私たちがテル・ブラクを目指したのは、2011 4 月のことだ。チュニジアの政権崩壊が近隣のアラブ諸国に波及した、いわゆる「アラブの春」がはじまって 4 ヶ月が経とうとしていた頃に当たる。
 その影響で長期独裁政権下にあったシリアも、動乱の最中にあった。アサド大統領に対する国民の反発が強まり、それを弾圧しようとする政府の厳戒態勢が敷かれていたのだ。
 ~~。「外では政治的な話はできないよ」と現地ガイドが嘆いていた。
 ダマスカスを後にしておよそ 8 時間。遠方にテル・ブラクが姿を現した。
 テルというのは、この地方の言葉で「遺丘」を意味する。~~。

 

 (PP. 327-328)
 テル・ブラクで都市が誕生した後、加速度的に分業は盛んになっていったと考えられている。その証拠がイラクで見つかった。テル・ブラクの発掘以前、長らく都市の起源と考えられてきたイラクの都市遺跡だ。
 都市の名は、ウルク。日本の自衛隊が 2003 年に派遣されたサマーワにある。現在は発掘が行われていないため、テル・ブラクほど古い時代のことは解明されていないが、紀元前 3000 年頃すでに 250 ヘクタール、人口 4 万人ほどの都市であったことが分かっている。
 私たちは、ウルクの発掘を行っていたドイツのハイデルベルク大学を訪ねた。そこで、考古学者のマルクス・ヒルゲルト博士が見せてくれたのは、小さな粘土の板だった。よく見ると、小さな文字のようなものが書かれている。
「これは、人類が発明した初めての文字で書かれた粘土板です」
 その内容は、まさに都市の産物だった。
「粘土板の内容は、職業のリストです。リストの最初の行には、当時の最高位の職業が記されています。彼らはさまざまな経済活動の責任者たちです。ほかの部分は、すべてが解読できたわけではありませんが、別の資料から再構成してみると、大麦、魚、畑を耕す鋤[すき]などの文字が見られます。それらを管理する、もしくは収穫したり、道具をつくったりする職業だったのかもしれません」
 文字の誕生。ここから歴史の手がかりとなる情報が圧倒的に増える。
 ~~。
「これらの発見で、この時代には、すでに複雑な社会構造があったことが推測できます。紀元前 3500 年から 3000 年といえばすべてが原始的だと考えがちですが、それは間違いです。当時のウルクは、誰もが望むようなものがすべて揃った発展都市でした。この時点で、すでに高度な分業が存在し、複雑な階層社会が確立されていたのです」

 

 (PP. 329-330)
 こうなると気になってくるのが、この章のテーマである「繁栄が人類の心をどう変えたか」ということだ。そのことを聞きに、メソポタミアの宗教・哲学が専門のウィーン大学、ゲッパルト・ゼルツ博士を訪ねた。~~。
「当時、都市で暮らしていた人々は、複雑に分業した社会が繁栄していくのを目撃しました。そして、繁栄が約束されている都市に住みつづけたいと願いました。彼らは、半遊牧的な昔ながらの生活をしている都市周辺の人々に対して、優越感を感じていました。田舎の人々を見下すほどの自信がみなぎっていたのです」
 その自信は、神に対する人々の考え方も決定的に変えた、と博士は考えている。
「旧石器時代以降、人々は超自然的な力を信じ、畏[おそ]れていたという証拠があります。でも、都市の形成、社会の階層化にともなって、神々の世界も現実社会と同じように階層化され、人の世界と同じようなものだと捉[とら]えられるようになり、神は擬人化されたのです」
 地上に王がいるように、天国にも王がいる、地上と同じ酌人(ワインを注ぐ給仕)が天国にもいる、という思考だ。
「地上にヒツジを太らせる羊飼いがいるように、ヒツジの繁殖を司[つかさど]る神がいます。さらに、次の段階に進むと、『私は人々の王であるばかりか、私は天国の王と同じ機能をもっているから、私は神である。私は天国の王と同じ責任があるから、私自身神である。』と言いだす王が現れます。これは紀元前 3 千年紀のメソポタミアにいた複数の王が、自らを神聖視していた理由です」
 実際、彼らは人々が神々に対してもつ畏敬[いけい]の念を、自分に対してももつように要求した。神に対する捧[ささ]げ物だけでなく、神聖な王に対しても、同じ方法で同じ種類の捧げ物が要求されたという。王の地位は神に並ぶ神聖なものになったのだ。
 暮らしの変化は、明らかに人の心を変える。都市の繁栄に伴って、当時の最先端技術でつくられたものや、遠方の珍しいものに接するようになれば、人々に自信がみなぎるのも無理はない。そして、それは自分たちのほうが優れているという思想につながるのだろう。

繁栄を支える心の仕組み

 

 (PP. 337-340)
 ~~、分業は高度な専門化を可能にした。
 ひとつの作業に取り組んでいけば、程度の差はあれ、その作業にどんどん習熟していき、作業スピードも上がるし、できる内容もより高度なもの、巧みなものになっていくだろう。
 全員が農耕をして自給自足をしている状況と比較してみればいい。誰だってそこそこの生産はできて、なんとかやっていけるだろう。でも、上手下手は歴然とあるはずだし、それぞれ特技も違うだろう。天候を読むのがうまい人がいるかと思えば、妙に手先の器用な人もいる。当然、天候を読むのがうまい人が農耕を指揮し、手先の器用な人が農機具をつくるといった分業をしたほうが効率がいいに決まっている。
 しかし、ここで問題になるのが、交換が保証されているかということなのだ。いくら農機具づくりが得意でも、その作業が好きだとしても、農機具自体は食べられない。家を埋め尽くすばかりになっても、誰かが食料に交換してくれなければ、飢えて終わりだ。食料と交換できる保証がなければ、誰もが農耕をして自分の食い扶持[ぶち]を確保するしかない。
 チンパンジーの世界にブドウを採る画期的な器具ができたと仮定しよう。その器具を見事につくる名人チンパンジーが出現したとしよう。食料同士の交換さえ渋るチンパンジーの世界で、名人は器具をつくって生きていけるのか。その器具とブドウの交換は成立するのだろうか。仮定の話だから断言はできないが、まあ、とっても怪しいに違いない。
「チンパンジーでは、人間のように高度な専門化は見られない、つまり、その道のプロが現れることはないのです」(ブロズナン博士)
 ~~。
 古代でも、プロ化が生産性を著しく向上させたことを物語る物がある。ドイツのイェーナ大学に保管された粘土板だ。そこには、畑を耕す鋤[すき]が描かれている。よく見ると、種を効率よくまくための、ろうとのような形をした部品がついている。イェーナ大学のクレベルニク博士によると、こうした改良型の鋤は、紀元前 3 千年紀に登場し、麦の生産量を実に 3 倍も引き上げる原動力になったのだそうだ。プロを生み出すには、その分の食い扶持を確保しなければいけない。農機具だけをつくって生活しようという人が飢えないためには、食料との交換が必須だが、その前提として、交換に応じるだけの余剰食料があることも必須である。都市の成立は、その背後に、十分な余剰食料を生み出す生産性の向上があったのだ。
 プロ化が生産性を向上させ、交換を活発にして、さらに多様なプロを生んでいく。なるほど、交換こそが、高度な分業を可能にし、技術の発達を促し、ちゃんと私たちの繁栄の礎になっているわけだ。
 そう語るのは、ブロズナン博士だけではない。イギリスのサイエンスライターで動物学者のマット・リドレー博士もそう主張する。リドレー博士は、日本でベストセラーになった 2010 年出版の『繁栄』という本の著者でもある。
「人間の進化には、パラドックスがあると思います。それは、身体と脳は漸進的に変化するのに、文化は非常に突然変化することです。15 万年前から、脳は拡大していません。脳以外に、文化の発展を説明する人間だけの特徴がなければなりません。人間は言語に優れていたとか、意識があるとか、模倣するとか、自己という認識があるとか、といったことが挙げられますが、こういった従来の説明はすべて、文化が爆発的に花開いた時期とタイミングが違っています。それらの年代は、ずっと前の時期まで遡[さかのぼ]れます。私たちが探しているのは、文化における高速増殖反応の引き金になるものといえるでしょう」
 人類史のなかで、タイミングが合っていることとは何か。それこそが、人間独自の進化のメカニズムの有力候補と考えることができる。
「私は交換の発明だと思います。初期の都市は、まさに交換が発展した場です。交換ネットワークに入った職人たちが、自分の道具をつくるための道具を開発し、自分の商品をつくるのに役立つ技術に投資しました。そして、文明が誕生しました。興味深いことに、都市文明の崩壊の時期には、こうした交換や分業が後退する様子が見られます。メソポタミアの一大都市やローマ帝国の滅亡の後、人は自給自足の生活に戻り、熟練した技能の一部は失われます。それは、人があらゆることを、少しずつ自分でやろうとするからです。交換と繁栄は、互いに呼応しあっているのです」
 人類がすごいのは、交換することによって「集団的頭脳」を創ることだ、と博士はいう。つまり、私たちが身につけた知識は、個人の頭のなかにしまわれているのではなく、交換によって地球上のあちこちのさまざまな人たちと共有されるというのだ。
「一度、交換というものが発明されると、別の場所で誰かが発明した道具は、交換ネットワークを通じてあなたが使えるようになるのです。それは問題を解決するための集団的エンジンとなり、個々の知性によって実現するよりも、はるかに大きな成果につながります。私たちは、人類という巨大な頭脳の一員なのです」
 そのネットワーク化された頭脳のなかで、それぞれの人がもつアイデア同士が寄せ集まり、出会って、掛け合わされる。
「それは実際、生殖という考えに似ていると思うのです。人の文化的進化や繁栄において、アイデアの交換は、生殖における遺伝子の交換が生物学的進化をうながすのと同じ役割を果たしています。こうして人類は、遺伝子による生物学的進化を待たずとも、アイデアがかけあわされることによって爆発的な文化的進化をなしえるようになったのです」

そして、現代人の心が生まれた

 

 (P. 385)
 みんなが寄り添って暮らしていた生活にかわって出現するのは、同じ集落に暮らしながら、孤立して生きる人間の姿かもしれない。
 コインと、それが生み出した無限の欲望は、アテナイの社会に同じ孤立をもたらした。
 エクセター大学のシーフォード博士も、ギリシア悲劇ではその孤立が大きなテーマになっているという。

 

 (PP. 387-388)
 コインが歴史上初めて「無限の欲望」と「個人」を生んだ。これこそが、長年の人類の平等社会を変えたとシーフォード博士はいう。
「コイン以前の時代においては、与えるという義務がありました。富をもつ人、あるいは権力をもつ人が、品物やサービスを他者に与えることによって、人望を集めます。そのようにしてつくり出される善意こそが、人々を結びつけていたのです。そこにコインが導入されるや、そうしたことは重要視されなくなり、他者を支配する権力の実体は、単にどれくらいコインをもっているかということに帰着するようになったんです」
 人々はお金を蓄えることに腐心し、周囲の人間に善意を施そうとしなくなった。すなわち、貧しい人々が支援を必要としているときでも、富める者が支援する義務を感じなくなったのだ。
「貧しい人々は簡単に貧困に陥ることになります。コインというものは、それ以前の社会がつくり出すことのなかった甚大な不平等状態を生み出す可能性をもっているのです」
 一方で、まったく違う平等を生む原動力でもあったという。
「アリストテレスは、コインが人々を平等にすると述べていました。商取引において、あなたが誰かということは関係ありません。『私は王子様だから、これ以上は支払わない』などという論理は、主張できません。通用もしません。富や地位の違いは、コインを介した商取引には完全に不必要なのです」
 信用を肩代わりしてくれるコインさえあれば、いかなる人も商取引において平等なのだ。

無限の欲望の代償

 

 (P. 406)
 ドイツの哲学者ジンメルが 1900 年に出版した『貨幣の哲学』によると、「人があるものを欲しがるのは、それが簡単には手に入らないからだ。人とモノの間に距離があることにより、欲望が生まれる」のだそうだ。だから欲望は、手に入りにくいもの、非日常的なもの、めずらしいものへと絶えず向かう。欲望は常にそのフロンティアを求めるのだ。
メンデルの法則
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