熱力学:統計力学:量子力学
状態量 (状態変数)

 

FRONTIER SCIENCE SERIES
『エントロピーのすべて』 〔小野周/著〕

 

2 エントロピーと熱力学
 (PP. 42-43)

 

 状態変数としてのエントロピー
 熱平衡の状態にある物体は、放置しておけばいつまでもそのままの状態にある。簡単な場合には、この物体の状態は温度と体積を定めれば決まる。簡単というのは単純な気体や液体を指すものと考えてもよい。この場合には温度と体積に限らず、他の変数を用いてもよい。このような変数としてすでに知っているものに、温度、体積、圧力、内部エネルギーがあり、それぞれ、T V p U で表す。これらの変数は状態を決めれば大きさが定まるので、状態変数といわれる。またここで考えている簡単な場合は、この中の二つを決めれば状態が定まる。状態変数としてこの他によく使うものとしてエンタルピー H がある。これは UpV である。
 これらの変数にここで導入したエントロピー S が加わるわけであるが、これは非常に大きな意味をもっている。他の状態変化と同様、他に一つの変数を決めれば物体の状態が定まる。たとえば TS によって状態が決まるわけである。しかしそれだけではなく、可逆変化に限れば、U の変化 dUV の変化 dVS の変化 dS の一次式で表し、それらの係数が pT になるということである。また U のかわりに H を用いると、dVdp で、pV でおき替わる。
 このような状態変数はエントロピー S の存在が発見されてはじめて明らかになったことであるが、可逆過程に限定されていることも大きな特徴である。~~。

3 分子運動とエントロピー
 (PP. 56-57)

 

 ボルツマンの原理
 状態の確率 W とエントロピー S の間に成り立つ関係式 Sk log W をボルツマンの関係式と呼んでいる。この式はウィーンにあるボルツマンの墓の墓石に刻んであるが、ボルツマン自身がこの式を最初に書いたのではない。これを最初に書いたのはプランクであって、一九〇六年の『熱輻射の理論』の初版の中にある。定数 k を最初に導入したのもプランクである。ボルツマンの原理という言葉を用いたのはアインシュタインであるが、彼は対数を使った式の代わりに、この逆関数に相当する W = e s / k を用いた。それは S が経験的に既知の量で、W が未知の量であるからである。しかしいずれにしても、S と状態の確率 W の対数の比例関係を最初にのべたのはボルツマンである。ただこの W は本来の確率とは違うので誤解を避けるために、ミクロ状態の数または単に状態の数とよぶことにする。
 ボルツマンの原理はこれからエントロピーを分子論的に論ずる場合の基礎となるものである。ここではエントロピーの原点をどこにとってもよいことを考慮に入れてボルツマンの関係式を Sk ln W + const. とする。また lne を底とする対数、すなわち自然対数である。この記号は ISO(国際標準化機関)に従ったものである。

プランク定数 & ボルツマン定数

 

ブルーバックス
『物理定数とは何か』 〔西條敏美/著〕

 

 第 11 章 プランク定数

 

   プランク定数とは

 

 (PP. 232-233)
 一九世紀全般を通じて、日常のマクロな物理現象に対して、ニュートンの古典物理学はかがやかしい成果をおさめていました。ニュートンの物理学で、すべての物理現象が説明されうるかのように思われました。
 しかしながら、二〇世紀にはいってから、原子レベルの多くのミクロな現象、とくに熱放射の現象に関しては、ニュートンの物理学が適用できないことが次第に明らかになったのです。ミクロの世界にはミクロの世界だけに通用する新しい枠組みの物理学を必要としたのです。これが量子力学といわれるものです。
 プランク定数 h は、ミクロの世界の諸現象を記述する量子力学において、かならず現れてくる重要な普遍定数です。その今日の精密値は、
h = 6.6260775 × 10 -34 J • s
となっています。単位は J • s ですから、一 J(ジュール)のエネルギーが一 s(秒)間に作用する量を基準にしていると考えてよいでしょう。エネルギーを J(ジュール)単位でなく、erg(エルグ)単位で表すならば、1 J = 10 7 erg の関係がありますから、
h = 6.6260775 × 10 -27 erg • s
となります。J 単位で表すにしろ、erg 単位で表すにしろ、そのスケールは何と小さなことでしょう。
 こんなに小さな値をもつ定数が他にあったでしょうか。こんなに小さな値をもつがゆえに、その発見が容易ではなかったのです。古典物理学では、あまりに小さいがゆえに、h という定数の存在に気がつかず、h = 0 と見なしていたということができます。
   プランクによる普遍定数の発見

 

 (P. 233)
 プランク定数 h は、一九世紀末のドイツにおける熱放射の研究から生まれました。熱放射とは、高温の物体から光が放射されることをいいます。物体、たとえば鉄を熱すると、はじめのうちは目に見えない赤外線が放射されます。だんだんと温度を高めると、赤色から黄色をおびた光が放射されるようになり、もっと高温にすると青白くまぶしい光を放つようになります。
 当時、放射される光のエネルギーの分布式として、ウィーンの式(一八九六)が提出されていましたが、波長の長い領域では、この式は実験と合わないことが明らかになりました。そこでプランクは一九〇〇年、エネルギー量子 の考えを導入し、新たなエネルギー分布式を提案したのです。~~。

 

 (P. 234)
 ~~。彼があたえたエネルギー分布式には、二つの定数 h k がもろに現れていました。h がプランク定数で、k は第 12 章で述べるボルツマン定数です。

 

 (P. 235)
 ~~。こうして彼が得た h k の値は、それぞれ、
h = 6.55 × 10 -27 erg • s
k = 1.346 × 10 -16 erg • K -1
でした。
 なおここで、プランクが、自ら見いだした普遍定数に h の記号をあてたのは、もともとエネルギー量子 の考えが、エントロピーとの関連で導入されたことによっています。ボルツマンはエントロピーとしてはじめ E の記号を用いましたが、エネルギーと混同されるおそれがあるとして、後に H の記号を用いました。それで、プランクは、これに対する小文字を自らの定数にあてたのです。
   アインシュタインによる評価

 

 (PP. 236-237)
 プランクのエネルギー量子 の考えは、熱放射のエネルギー分布式によって理論的意義づけがあたえられたとはいえ、あまりに大胆すぎてなかなか受け入れられませんでした。当のプランクですら、h は自然界にひそむ普遍定数としてその意義を認識していましたが、エネルギー量子 については、必ずしもその意義を自ら認識しえてなかったようです。散歩の途中、自分の息子に対して、「たぶんまちがいであろうし、むしろそうであることを望んでいるが、自分はひょっとしたら大変なことを発見したのかもしれない」ともらしたと伝えられています。時にプランク四二歳のときのことでした。この年齢でこれだけの大きな創造活動をなしえたのは、物理学史上めずらしいことです。
 五年の歳月が流れて、最初にその意義を認め、自らの理論にとり入れたのは、二六歳の若きアインシュタインでした。
 彼は、一九〇五年、「光の発生と変脱に関するひとつの発見法的観点について」と題する論文を発表しました。この中で、彼は、光電効果の現象を光のエネルギー量子という考えでみごとに説明したのです。
 アインシュタインは、プランクとは逆にエネルギー量子 の考えの重要性は認めましたが、h という定数はなかなか認めず、他の定数の組み合わせで説明しようとしました。~~。
 その後も、彼は光電効果の理論的考察を深めて、次々と論文を発表していくのですが、一九〇六年、一九〇七年の論文でも、まだ h という記号を使っていません。やっと h なる記号を用いたのは、一九〇九年の論文においてでした。

 第 12 章 ボルツマン定数

 

   ボルツマン定数とは

 

 (P. 250)
 ボルツマン定数 k は、気体定数 R をアボガドロ定数 NA で割った量、
k R
 
 N
で定義される定数です。つまり、k とは原子あるいは分子一個あたりの絶対気体定数を表しているといえます。したがって、RNA の精密値が定まれば、k 値はこの式より二義的に決まります。k 値の探究史は、RNA の値の探究史と置き換えることができます。つまり、実験で直接 k 値を測定しようとしても、もともと原子あるいは分子一個あたりの定数ですので、精度のよい測定は困難であって、k の精密値は RNA の精密測定から計算で求められています。

 

 (PP. 251-252)
 ボルツマン定数 k は、もうひとつ別の流れ、エントロピー概念を追求する中でも現れてきます。つまり、古典熱力学におけるエントロピー S の概念が、物質のミクロな状態の数、いいかえると原子レベルで熱力学的状態を実現できる可能性の数(熱力学的確率)W の概念にまで還元できることが明らかになったとき、この両者を結ぶ定数として重要な役割を担うのです。つまり、
Sk log W
なる簡潔な表式が成立します。
 この式は、今日ボルツマンの式と呼ばれますが、この場合もまた当のボルツマン自身、この表式を示していませんし、k の具体的値も提出していません。彼はその概念を言葉でのべたにすぎません。ボルツマンが示した概念をひとつの表式にまで高め、k 値も提出したのは、プランクでした。今日、ボルツマン定数 k の精密値は、
k = 1.380658 × 10 -23 J / K
になっています。
   古典熱力学におけるエントロピー概念

 

 (P. 252)
 エントロピーの概念をはじめて明らかにしたのは、クラウジウスです。
 彼は一八五〇年から一八六五年までのあいだに熱力学に関する論文を九篇発表しています。そのうち一八五四年の第四論文で、後にエントロピーと名づけられる量が Q / T の形で現れています。ここで、Q は気体が吸収した熱、T はそのときの絶体温度を表しています。Q / T にエントロピーと命名し、熱力学の第二法則をエントロピーでもって定式化したのは一八六五年の第九論文です。この論文の末尾には、第一法則と第二法則の文章による有名な記述があります。つまり、「一、世界のエネルギーは一定である 二、世界のエントロピーは極大値へと向かう」と。
   統計力学におけるエントロピー概念

 

 (PP. 256-257)
 クラウジウスが導入したエントロピーの概念を物質を構成する原子・分子のミクロな状態の数(熱力学的確率)W といった概念にまで一般化したのは、ボルツマンでした。エントロピーが増大したということは、原子や分子の状態の数が増えたということです。
 いま、エントロピー S をもつひとつの熱力学的系を考えて、これを系 1 と系 2 との二つに分けてみます。系 1 と系 2 のエントロピーを S1 S2 とすれば、
SS1S2
であるのに対して、全系の熱力学的確率 W は、系 1 の現れる確率 W1 と系 2 の現れる確率 W2 との積であたえられ、
WW1W2
となります。エントロピー S が和で表され、熱力学的確率 W が積で表されます。したがって、S W の対数で表すことができます。つまり、ある定数を k として、
Sk log W     (12 • 2)
であたえられます。

 

 (P. 259)
 ただ、ボルツマン自身はというと、式 (12 • 2) という公式を書いたことは一度もありません。彼は、エントロピー S と熱力学的確率 W とが比例することをのべただけなのです。「異なる状態分布の数の比からそれらの状態の確率が計算できるかもしれない。そして、それがおそらく興味ある熱平衡を求める計算へとみちびくのではないだろうか」(一八七七)とあいまいな表現しかしていません。
 ボルツマンの考えを公式 (12 • 2) の形にはじめて書いたのは、後のプランクでした。
   プランクによる定式化と定数値の見つもり

 

 (PP. 259-261)
 プランクは、エントロピー概念を放射場へ一般化する中でエネルギー量子 の概念に到達しました。彼の一連の論文を見ていると、全体を貫いているのは、エントロピー概念です。そして、今日の表式 (12 • 2) がでてくるのは、一九〇一年の論文「正常スペクトル中のエネルギー分布の法則の理論」(口頭発表一九〇〇年一二月)においてです。論文の冒頭で、「いまは S の計算ができるようにする他の条件を導入しなければならず、またこれを実行するにはエントロピー概念の意味をさらにくわしく考察することが必要である」とのべ、つづいて、エントロピーの式 (12 • 2) を提示しています。
 プランクは、定数 k に名称をあたえることなく、定数 h とともに二つの自然定数として、その値を示しました。その値は、
k = 1.346 × 10 -16 erg / K
でした。~~。
 プランクは後にボルツマン定数 k について、次のように回想しています(一九四八)。
 私は、簡単に Sk log W という式をだした(一九〇〇年一二月)。……私は、k はグラム分子あるいはモルに対してではなく、ほんとうの分子に対して、いわゆる絶対気体定数を示すことを発見した。これはわかりよいためによくボルツマン定数とよばれている。しかし、こういうよび方に対して、この定数はボルツマンが入れたのではないし、私の知っているかぎりでは、ボルツマンは一度もそういう数値を研究しようとは思わなかった、という批判が必要である。なぜなら、もしボルツマンがその定数を入れたとしたなら、この人はほんとうの原子の数という問題を調べなければならなかったはずだからである。ところが、この人はこの仕事を同僚のロシュミットにまかせて、自分のほうは計算によって、気体の動力学説は機械的な図しか示さないという可能性をいつも頭に置いていたのである。したがって、ボルツマンはグラム分子でゆきづまって満足した。
 k という文字はすぐには認められなかった。それを紹介してから数年たっても、一般には相変わらずロシュミット数 L で計算する習慣になっていた。

   ボルツマン定数の受容と定着

 

 (P. 261)
 プランクがこのようにのべたボルツマン定数の受容と定着はどのようであったのでしょうか。
 たとえば、プランクが定式化してから五年後の一九〇五年、アインシュタインは有名な光電効果の論文を発表します。その論文の後半で、エントロピー問題が論じられていますが、
S R  log W
 
 N  
として、プランクが使った k は使われていません。それどころか、アインシュタインは、プランク定数 h に対してもそうでしたが、定数 k に対しても、その導入に執拗に抵抗し、一九〇九年までは R N で表示していました。ここで N はアボガドロ定数 NA です。

 

 (P. 262)
 一九一〇年代の後半には、k という表記が定着し、ボルツマン定数とよばれるようになったといえます。
   ボルツマンの墓に刻まれた公式

 

 (P. 263)
 ボルツマン定数 k とは、つまるところ、エントロピー S という熱力学的概念と、原子・分子の微視的な状態の数(熱力学的確率)W とを結ぶ定数なのです。熱力学的世界と統計力学的世界とのかけ橋の役目を担っているのです。したがって、この定数を一文字、k で置くことは自然といえましょう。
 ウィーンにあるボルツマンの墓には、彼の業績を讃えて、
Sk log W
の式がはっきりと刻まれています。
熱力学:統計力学:量子仮説

 

ブルーバックス
『エントロピーをめぐる冒険』 〔鈴木炎/著〕

 

3 章 憂鬱な教授 ―― 世紀末のウィーン

 

 (PP. 85-89)

 

エントロピーの意味を求めて

 

 ボルツマンの時代には、熱力学の重要性が広く物理学者の間で認められるようになっていた。だが、クラウジウスが発見した〈エントロピー〉については、とくに英国で誤解と混乱が生じていて、「熱を温度で割った量」が結局は何を意味しているのか、それが物質の内部構造や状態とどう関係しているのか、また、熱力学の第二法則とは根源的な原理なのか、それとも何か別の理論から証明することが可能なのか、そういった疑問は謎に包まれたままであった。
 とりわけ第二法則の〈不可逆性〉は、ニュートン力学には存在しないきわめて異常な性質である。老いたクラウジウスやトムソン(ケルヴィン卿)、また、若い世代のマクスウェルによっても暗中模索が続いていた。「熱の異なる状態」「仕事実現能力」「利用可能性」「有効性の指標」などなどの言葉が用いられていることからもうかがえるように、どこかまだ本質が見えていない、射抜けていない、という感覚 ―― 歯がゆい状況が支配していた。
 ウィーン大学のヨーゼフ・シュテファンという新進気鋭の物理学者の下で最先端の物理を学んだ若きルートヴィヒ・ボルツマンも、そのキャリアの初めから、エントロピーの問題に強い関心を持っていた。1866 年、博士号を取ってシュテファンの助手になったその年に書いた事実上の処女論文で、22 歳の彼はのっけから、その前年にクラウジウスが名づけたばかりの、できたてほやほやの概念〈エントロピー〉を取り上げた。
 第一法則とエネルギーの概念は確立しているのに対して、第二法則とエントロピーの意味は、いまだ五里霧中である。だから俺は、ミクロな気体分子の動き(気体分子運動論)にもとづいて、ストレートに第二法則を証明するのだ! ボルツマンは息巻いた。
 ~~。
 その結果、「運動エネルギーの時間積分の対数」という、いまひとつ、ぴんとこない表式が得られた。これは過渡的な結果にすぎないが、彼の果敢な目的意識を最初から示している。ちなみにこの 5 年後、エントロピーの始祖クラウジウスもほぼ同様な結果を発表したが、このときボルツマンはすかさず「ちょっと待て。俺のほうが先だったぞ」という覚書を投稿している。この無作法な若者に、クラウジウスは素直に謝った。やはりいい人だったのだ。
 実験家としても活躍したボルツマンの研究人生は、多産だった。~~。その中でも代表作は、第二法則とエントロピーの本質にぐさりと切り込んだ記念碑的な二報 ―― いわゆる〈 H 定理〉論文( 1872 年)と〈確率論〉論文( 1877 年)である。このうち、とくに前者に関しては、気体分子の速度分布(マクスウェル-ボルツマン分布)がきわめて重要な関連をもってくる。だからここで、もう一人の輝ける天才、マクスウェルにもご登場願おう。
マクスウェルの画期的な論文

 

 ジェームズ・クラーク・マクスウェル(図 3 ‑ 2 ⇒〔説明文のみ引用〕若き日のマクスウェル (1831‑1879) )。いうまでもなく、今日の光学と電磁気学において必須の「マクスウェル方程式」で知られる英国の物理学者である。現存する(とくに若いころの)写真を見ると、古今東西の科学者の中でも一、二を争う、ほとんどハリウッドスターなみのイケメンであることがわかって驚く。文章も洗練されていて都会的。科学者どうしの先陣争いを笑い飛ばすシニカルなセンスが光るが、意外にも実はスコットランドの田舎育ちである。なまりがひどく、子供のころは「うすのろ」呼ばわりされていじめられたらしい。
 ~~。その論文のスタイルは、とにかくエレガントで簡潔、厳密にして明晰。客観的・批判的に自分の思考を検証し、すべての可能性を考えつくして議論することができた。
 39 歳にしてケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所の初代所長となるが、それから 8 年後、48 歳の若さで死去。母親と同じ腸の癌だった。たぶん症状に心当たりがあったのだろう。余命 1 ヵ月と宣告されたとき、あまりにも冷静だったので主治医のほうが逆にショックを受けたという。自分のことより病弱な妻のことばかり心配し、激痛に耐えつつ最期まで快活さを失わなかった。
 彼の電磁気理論が実験的に検証されたのは、その死から 10 年近くたってからのことである。今日の科学技術において、その恩恵をこうむっていない分野を見つけることは不可能に近い。
 マクスウェルが気体分子の速度分布について最初に論文を出したのは 1860 年、29 歳のときであった。気体分子運動論は、理想気体を通して熱力学と密接な関係にあり、すでにあのクラウジウスが大きく前進させていた。とはいうものの、分子が走り回る速度は一様ではなく、衝突を繰り返すため速いものもあれば遅いものもあるから、ニュートン力学的に真っ向から切り込むにはあまりに複雑すぎて、定量化することができなかった。だが驚くなかれ、この論文で、マクスウェルはいきなり「速度分布」という難問を解決してしまったのだ。~~。

 

 (PP. 92-95)
 実はこの議論の背後には、統計的なランダム性、すなわち「各分子の速度成分は完全に独立で、相関がまったくない」ということが、さりげなく仮定されている。マクスウェルはこの戦略を、当時読んでいた誤差論の教科書からとってきたらしい。いかにも彼好みの明晰さに満ちてはいるが、この論法、誤差論の分野においてさえ「厳密さに欠ける」と批判されたくらいだから、物理学者が納得しなかったとしても驚くにはあたらない。
 事実、ニュートン力学的に分子運動の軌跡をしらみつぶしに追いかけようとする「真っ当な」立場からは、速度の完全独立性は自明でなく、「おいおい」「なんじゃそら」「ざけんなよ」的不満が炸裂した。分布則そのものが見事に実験結果を説明することに驚嘆しつつも、いやむしろその正しさを確信できたからこそ、その理論的導出に異議ありという批判は重大であった。この批判に答えて、マクスウェル自身もその後たびたび、ほかの導出方法を提案していくことになる。
 しかし、この問題に対し、誰よりも貪欲に、猛然と食らいついていったのがボルツマンであった。
H 定理〉への道

 

 ボルツマンはすでに、マクスウェルの速度分布を一般的に拡張するという成果をあげていて、マクスウェルからも一目置かれる存在になっていた。ゆえに今日、この速度分布則は通常、マクスウェル-ボルツマン分布と呼ばれる。だが、血気盛んなボルツマンはそこで立ち止まってはいられなかった。気体分子どもが、時間とともに、どのようにして「平衡」の状態へと落ち着いてゆくのか、という難問 ―― 不可逆過程の解析へと切り込んでいった。28 歳のときである。
 100 ページ近くに達するこの長大な論文で彼がもともとめざしたのは、マクスウェル自身による「なんじゃそら」導出の弱点をぴしりとカバーして、「マクスウェル-ボルツマン分布」こそが唯一の平衡分布であるということを証明することだった。すなわち「気体分子たちが初めにどんな速度を持っていても、衝突を繰り返すうちに必ずマクスウェル-ボルツマン分布へ到達する」ことを、詳細な分子運動の力学を通して、疑問の余地なく示そうとしたのである。
 ボルツマンの論文スタイルは、マクスウェルと好対照をなす。がむしゃらで力技、ブルドッグというかブルドーザーというか、猪突猛進、とにかく最終地点へと障害物をばったばったとなぎ倒しつつ突き進む。モットーは「エレガンスなんて知るか。洋服屋にまかせとけ」だった。
 だが、いかなボルツマンといえども、膨大な数の分子集団の運動と衝突を、ニュートン力学でそのまま追いかけることはできない。そこで彼が思いついたのは、分布関数と積分を駆使して、衝突の力学と確率論を巧みに組み合わせるという手法だった。「ボルツマン(輸送)方程式」と呼ばれるこの発明は、今日でもプラズマ物理や光散乱などの諸分野で盛んに利用されている。
 しかし〈エントロピー〉の文脈においてさらに重要なのは、めざす証明のためにひねり出された奇妙な関数だった。それは「速度分布 f の対数の平均値」、すなわち

 

H = 〈 ln f   ⑺

 

という形をしている。
 ボルツマンは当初、この関数を「 E 」と名づけた。エントロピーを意図したものと思われるが、英国の読者がドイツ語の活字を「 H 」と読み間違えたため、そのうち物理学者たちは(ボルツマン自身も含めて)みな、〈 H 定理〉と呼ぶようになった。
 こみいった複雑な計算の末にボルツマンが明らかにしたのは、この関数 H が時間とともに、必ず減少してゆくということだった。したがつて、H が最小になった分布(すなわちマクスウェル-ボルツマン分布)が、唯一の行き着く先、つまりは「終着駅」であることが、きちんと証明できたのである。
 ボルツマンはいかにして、鍵となるこの関数を思いついたのだろうか。論文を読んでも、よくわからない。本人は「定理を証明するための数学的技巧」にすぎないと書いている。しかしすぐに続けて、興奮気味に語る。
 ―― この関数が(符号は逆だが)本質的に〈エントロピー〉そのものであることがわかった!
 ―― 第二法則の解析的証明へつながるまったく新しい経路が切り開かれた!
 これは確かに、その通りだった。ミクロな分子運動の力学から、エントロピーが不可逆に増大すること ―― 第二法則が導かれたからである。本当ならものすごいことだし、原子論に懐疑的な連中にも鋭い一矢を報いることになる。だが、この結論はこのあと、大きな物議を醸[かも]す運命にあった。

 

 (PP. 96-104)

 

ロシュミットの「可逆性反論」

 

 ロシュミットの反論はこうだ。気体分子たちが運動と衝突をばんばん繰り返していき、その結果、ボルツマンの示したようにエントロピーが増大したものとしよう。そこで最後の瞬間に時間を止め、次いで(ビデオを逆回しするように)時間の進む方向を逆転させてみる。~~。このプロセスは仮想的なものではあるが、力学的には正しいから現実にも起こりうるし、終点から出発点へ戻ったわけだからエントロピーは減少している。
 ゆえに、エントロピーが「いつでも増大する」というボルツマンの主張は明らかに間違いだ。減少することもあるのだ。いや、それどころかどんな「エントロピー増大プロセス」にも、それを反転させた「減少プロセス」が必ず存在するはずだから、「エントロピーが不可逆的に増大する」というボルツマンの結論も、相当に怪しいということになってしまう。違うかね?
 論争好きなボルツマンは、怒るどころかロシュミットの反論を大歓迎した。ロシュミットの回りくどくてわかりにくい言い方を、より明瞭な形に書き直してさえいる。そして反論への回答もまた、明瞭であった。すなわちボルツマンは、エントロピー増大則は本質的に〈確率〉の問題だというのである。
 ロシュミットが指摘するように、エントロピーの減少はたしかに不可能ではない。その確率はゼロではない。しかし、それが現実に起こる確率は、何億回、何兆回もサイコロを振ってその目がすべて 1 になるようなもので、恐ろしく小さい。だから実際上は起こらない。われわれの経験するのは、いつでもエントロピーの増大なのだ ――。
 この回答がしかし、世の物理学者にとっては世紀の変わり目をまたぐほどの大問題となった。ちょっと待て、これは単なる苦し紛れの言い訳ではないか? ボルツマンはもとの論文で「エントロピーは必ず増大する」ことを証明したのではなかったのか? 実は例外がありました、では証明にならないではないか。そもそも第二法則は絶対の法則のはずで、エントロピーは例外なく増大してゆく、とクラウジウスはすでに宣言したのではなかったか。いつたい〈 H 定理〉とは何を証明したものだったのか?
 ロシュミットの挑戦がボルツマンの考え方を根本的に変えたとは思えない。〈 H 定理〉論文の最初のページで、すでにボルツマンは確率論を持ち出しているからだ。たぶん彼の頭の中では、確率の考え方は当然のように理論のバックボーンを構成していたのだろう。だからロシュミットの反論にも、わが意を得たりとばかり即座に回答できたのである。しかし、論文では例によつて先を急ぐあまり細かい議論をすっ飛ばして、決定論的な述べ方をしてしまっていた。また、先行していたマクスウェルと同じように、だがもっと微妙な形で、ボルツマン方程式にも暗黙のうちに、確率論的な仮定がそっと潜り込んでいたのである。
 ~~。
マクスウェルの直観

 

 実はあのマクスウェルでさえ、〈 H 定理〉は理解できなかった。彼はすでに「マクスウェルの悪魔」と呼ばれる問題の考察を通して、エントロピーが確率の問題であることを完全に把握していた。だから実際には、ボルツマンの発想に最も近いところにいたといってよい。だがマクスウェルは、ボルツマンの戦略には本質的に欠陥があると感じていた。~~。小手先の解決では事足りず、何かまったく未知のメカニズム、革命的な新概念が必要なのではないか。
 不可逆性は、そもそもどこから来るのか。過去から未来へ、一方向にしか進まない〈時間の矢〉とは何か。本書でものちの章でちょっと触れるが、この根源的な問題は、今日までさまざまな角度から研究されているにもかかわらず、最終的解決には至っていない。~~。
 どっちみち、あの時代では手も足も出なかった。マクスウェルの命の火は、尽きかけていた。〈 H 定理〉に関する短いメモは残っている。だが、複雑怪奇な理論を、詳細に検討することはなかった。
世界は〈順列・組み合わせ〉で動く!

 

 一方、ロシュミットの反論に勇み立ったボルツマンは、続いて、さらに思い切った行動に打って出た。彼が遺した二つ目の金字塔、〈確率論〉論文である。
 今度も 63 ページの大論文であり、熱力学第二法則とエントロピーが主題なのだが、驚くのは、アプローチのしかたがこれまでとは 180 度違うことである。〈 H 定理〉論文を埋め尽くしていた気体分子の力学 ―― 運動、軌跡、衝突の理論 ―― が一切消えてなくなり、そのかわりに意表をついて、壺の中から札を引いていくという「くじ引き」理論が延々と展開されているのだ。高校数学でお馴染みの、白玉と黒玉を意味もなくせっせと並べ替える例のアレ、〈順列・組み合わせ〉―― ビックリマーク(階乗)の支配するカフカ的世界である。
 だが、アレにも意味はあつたのだ! 昨今の受験数学に意味を見失った若者には、ひょっとすると朗報かもしれない。ボルツマンが示したのは、結局は〈順列・組み合わせ〉が、この世界を支配している、という驚愕の事実だった。つまりこうだ。
 無数の気体分子たちが無数の衝突を繰り返していく間に、運動エネルギーはさまざまなしかたでそいつらに分配されてゆく。すったもんだの挙句に、結局すべてはことごとくランダムになるだろう。限りある運動エネルギーを分子たちに振り分けてゆくやり方は、実にいっぱいある。では、それが実際、何通りあるのかをカウントしてみよう。
 正しいやり方で〈順列・組み合わせ〉の総数を数え上げてみると、その対数はなんと、例の関数 H ―― つまりはエントロピーにそっくりそのまま対応するのである。わかってみればこれは拍子抜けするほど簡単な算数で、ビックリマークに対する近似公式を使えば、一瞬で出てくるのだ。
 こうも言い換えることができる。〈 H 定理〉論文では、ボルツマンはコテコテの気体分子力学に、そっと巧みに確率論を忍び込ませて、苦労の末にエントロピーに到達したのだった。だが、いまや彼は〈エントロピー〉の本質が、実は〈確率〉そのものであることを、このうえなく明哲に喝破した。~~。衝突の力学をいちいち追跡するかわりに「分子たちにエネルギーをでたらめに分配する」という驚天動地の暴挙によって、エントロピーの本質を白日の下にさらけ出すことに成功したのだ。
 ~~。これこそ、マクロな熱力学をミクロな分子の統計から基礎づけようとする「統計力学」のはじまりであった。
粒々のエネルギー

 

 このボルツマンの〈確率論〉論文でもう一点、驚くべきなのは「エネルギーが離散的(飛び飛び)である」という仮定がいきなり使われていることだ。~~。
 今日では、分子が持つことのできるエネルギーの量は連続的ではなく、飛び飛びの粒々になっていることは量子力学の基礎知識となっていて、少なくとも理系の人間にとっては常識である。しかし、ニュートン力学ではありえないこの考え方は、それが提案された当時にはいうまでもなく、きわめて異様であり、常軌を逸していた。~~。
 プランクはボルツマンの次の世代の物理学者の代表格である。ベルリン大学教授、のち学長となり、量子力学の創始者として後世に名を残しているが、実はその発想は革命的というより、保守的だった。1900 年論文では黒体放射を見事に説明したにもかかわらず、自らが仮定した「エネルギー離散」は便宜的なもので、いずれは通常の力学の範疇で説明できるはずだと信じていた。
 というのも、そもそもプランクが手本としたボルツマン自身、「エネルギー離散」の仮定を置いたのは、あくまで便宜上の措置だったからだ。理由は簡単、分子が受け取るエネルギーが連続的だと、無限の可能性が出てきてしまうので〈順列・組み合わせ〉など数えようがないからだ。だから、ボルツマンの戦略はこうだった。とりあえずエネルギーが(白玉・黒玉のように)非常に小さい粒々でやりとりされると考えて〈順列・組み合わせ〉をカウントしてしまう。そのあとで、粒々をどんどん小さくしてゆく。最後にめちゃめちゃ小さくしてしまえば、事実上は「エネルギー連続」となる。つまり通常の力学で問題ないレベルへと戻せる。
 ~~。
 この粒々を象徴する存在が、〈プランク定数 h 〉というやつで、実際、ボルツマンがターゲットとした理想気体の場合も、もしエントロピーの絶対値を計算しようとすれば、h が出てきて、ざらざらした量子の粒々が見えてくる。いまから考えれば〈順列・組み合わせ〉をカウントするというその行為に必然性があること自体がそもそも、自然界における〈粒々〉の存在を暗示していると言えなくもないが、幸か不幸か、ボルツマンはエントロピーの相対値を計算しただけなので連続への極限が問題なく行えたから、量子論にまで踏み込む必要はなかった(ただし、ボルツマンは「空間と時間も究極はデジタルだ」という意味深な一言も書いている)。

 

 (PP. 112-113)

 

ボルツマンの孤独

 

 ボルツマンは書く。絶対の真理はない。あらゆる理論は近似であり、科学の進歩につれて近似の精度もよくなってゆく。理論の結果が実験とよく一致するならば、それで十分じゃないか。現時点ですべての疑問が解消できなくても、構わないのだ ――。
 これは直観的本能にもとづく素朴な実在論と言ってよいだろうが、今日ではほとんどの科学者が共有する楽観的な考え方だし、経験論の伝統をもつ英国や米国では当時から自然な見方であった。だから英語圏では、マッハ主義やエネルギー論はほとんど顧みられなかったのである。ドイツっぽいなあ、とバカにされるほどだった。だがヨーロッパ大陸ではボルツマンは少数派 ―― と言うより、ほとんど独りだった。彼の理論には致命的欠陥があるとみられ、〈確率論〉論文は、ほぼ無視された。ドイツとフランスでは「原子論は終わった」という見方さえあったという。マッハ陣営はボルツマンを「最後の柱」と呼んだ。

 

 (PP. 117-119)

 

エントロピーの「二つの顔」

 

 ボルツマンは結局、われわれに何を残したのだろうか。彼が見いだした、エントロピーの隠された真実とは何だったのか。
 ~~。いかめしい顔をした胸像の上に刻まれたエントロピーの公式は、科学者の間ではあまりにも有名だ。ただし、log は自然対数 loge の意味なので、今日では式 のように、logln と書かれることが多い。これはエントロピーの「統計力学的定義」と呼ばれている。
 だが実のところ、ボルツマンの論文にはこの式そのものは出てこない。これに相当する式はあるが、古典物理学者ボルツマンにとってそれは、あくまで単なる中間の結果であり、最終目標は連続極限をとって導かれる関数 H であった。ボルツマンの遺したアイデアを熟考し、ここまでシンプルな形に結晶化した功労者は、プランクだったのだ。だから、ボルツマンの墓の前では、多少なりともプランクにも想いを馳せるのが、エントロピーの〈通〉のたしなみである。
 それはさておき、ここでわれわれ初心者を悩ませる問題はこうだ。
 この公式(式 )―― エントロピーが「状態(順列・組み合わせ)の数」であるというボルツマンの結論 ―― は、サディ・カルノーを経てクラウジウスが到達したエントロピーの熱力学的定義(式 )―― 熱の流れを温度で割ったもの ―― とは、およそ似ても似つかないのである。どう見ても違う。違いすぎて、どこで折り合いをつけたらよいのか、見当もつかない。いったいどうしたら、この二つが同じ怪物〈エントロピー〉を意味しているということになるのだろうか。どう理解すればよいのか?
 ~~、ボルツマンのイバラの道を追体験する、という手はどうだろうか。つまり、ボルツマンの二つの論文をステップ・バイ・ステップ、丹念にすべて見ていくのだ。―― いや、それはやめたほうがよい。なにせ、合わせて 160 ページなのだ。あのマクスウェルでさえあきらめたという、いわくつきの代物なのである。~~。
SkB ln W    ⑻

 

dS q    ⑸
 
 T 
 (PP. 120-122)

 

隠された「問い」

 

 エントロピーの二つの公式をいま一度、じっくりと眺めてみよう。意外にも、ボルツマンがあれほど苦心惨憺[さんたん]して、複雑怪奇な理論を駆使した末に到達した式 は、呑み込んでしまえば実に単純明快で、理解に何の問題もないことがわかる。
 ~~。分子の集合体である物体を一つの「系」と見れば、そのマクロな全体像の「状態」は、瞬間ごとに猫の目のように目まぐるしく変わっている。それは全部で何通りありうるのか、それが単純に、式 の右辺にある状態数 W である。ただし、モルオーダーの分子集団については、量子状態を直接、計算するのは困難だ。
 一方、このマクロな状態は、それを構成する各分子たちのミクロな状態が組み合わされた結果であるという見方もできる。分子単独の量子状態はまあ計算可能なので、われわれは必然的に、このルートをたどることになる。分子たちは熱運動しているから、やはりそれぞれ、自らに許された量子状態の範囲で思い思いにポコポコと飛び回っている。その結果、物体全体では、全部で何通りの状態数がとれるか? その順列・組み合わせの総数が W である。ln W は、その自然対数だ。対数とは、W を数字として書き下したときの桁数(正確には「桁数 - 1 」、つまりゼロの数)に対応する。また、kB は定数で、単位を換算しているだけだから、結局、式 で表されているエントロピーとは、本質的な意味としては「状態数(の桁数)」にすぎないのだ。
「状態は数えられる」という量子力学の考え方さえ受け入れてしまえば、シンプルそのものである。「目の前の物質をミクロな眼で見たとき、分子たちがとれる状態は全部で何個ありますか?」という問いに、10 個なら 1 1000 個なら 3 ……という具合に、その桁数を答えただけのものである。とれる状態数が多ければ桁も多くなり、エントロピーは大きい。それらの状態間を分子たちが飛び回るわけだから、「乱雑さ」も増す、と言ってよいだろう。エントロピーとは「乱雑さ」である、という説明は、この式にもとづいたものなのだ。

【発展】エントロピーの表し方として、なぜ状態数そのものではなく、わざわざ対数(桁数)をとるのか。それは、われわれがエントロピーを、質量やエネルギーと同列の、物質の性質を量的に体現する概念として考えたいからだ。そのためには、たとえば 1g + 2g = 3g とか、1J + 2J = 3J のように、物質を足したらそのまま加算されるという性質が必要だ。ところが、状態数は〈順列・組み合わせ〉に従って「べき」で増える。サイコロ 2 個の状態数は 12 通りではなく 6 (1+1) = 36 通りなのだ。これを加算できるようにするために、あらかじめ「べき」を対数(桁数)にしてしまうのである。

5 章 田舎の天才 ―― 南北戦争のアメリカ

 

1875年10月、ニューヘヴン ―― 長すぎる論文
 (P. 166)
 会議は長引いていた。いま、エール大学の一室に集まっているのは、『コネティカット芸術科学アカデミー紀要』という雑誌の出版委員の面々。総勢は 6 名。彼らの目の前にうずたかく積み上げられている原稿が、紛糾している議論の元凶だった。
 (P. 167)
「商店街の親父たちはギブズをよく知っているから、助けてくれるんじゃないでしょうか」
 委員の間に笑いがこぼれた。
「本当に、それだけの価値のある論文なのかね?」
 誰かがそう言うと、一同の視線はおのずと、二人の数学科教授に集中した。両人は一瞬、顔を見合わせて躊躇したが、やがて、今回の議長を務めているルーミス教授が口を開いた。
「出すべきだとは思う。だが正直言って、私には内容がまったく理解できなかった」
 いま一人は、件[くだん]の論文の著者ギブズの師にして友人、天文学者ヒューバート・アンソン・ニュートン教授である。先ごろ、彗星の軌道を正確に予言して的中させ、世界的に有名になった。論文の真価を熱く語るなら、この男をおいてほかにない。しかし ――。
「実は、私にも全然理解できなかった」
 委員たちはざわめいた。
 (PP. 168-169)
 ~~。長いというだけでは門前払いの理由にはならない。
 しかもギブズは 4 年前、「前途有望な若手」として数理物理学教授に就任してから、エール大学の期待に応えるべく、地味だが着実な成果をあげてきている。すでに二つの論文を『紀要』に発表し、それには英国の雄マクスウェルが大いに注目したという。ヨーロッパから田舎者扱いされてきた米国の科学界にとってそれは、ニュートンの彗星に続く溜飲下げの快挙である。―― とはいえ、それはそれ。前の論文は、普通に短かった。しかし今回のこの代物は明らかに「論文」の常識を逸していて、読者の喜ぶ顔もちょっと想像しにくい。この調子でバカスカ出されたら破産だ。委員たちは思いあぐね、議論は一向に収束しなかった。
 そうこうするうち、しばらく沈黙していたアカデミー会長のヴェリル教授が口を開いた。
「われわれは、みんなギブズをよく知っている。あの男が書いた論文だ。信じよう」
 この一言で、すべてが決まった。~~。
マクスウェルの贈り物
 (PP. 180-184)
 大学院ではポアソン、フレネル、コーシー、波、光学といったテーマで講義をした。当初は、マクスウェルの電磁気学を知らず、1873 年のマクスウェルの教科書で初めて知った。熱力学に関心が向かったのも、最初は工学的興味からだったと推測される。だが、吸収と展開は劇的に速かった。
 1873 年、第一論文「流体熱力学のグラフ的手法」と第二論文「曲面を利用した熱力学的物性の幾何学的表現方法」を矢継ぎ早に出す。このとき 34 歳。
 欧州でクラウジウスが「エントロピー」の定義に踏み切って 8 年後、ボルツマンが〈 H 定理〉を発表した翌年のことである。マクスウェルはまだエントロピーの意味を把握しきれず、誤解していた。しかしこのときギブズは、すでにエントロピーと熱力学を完璧に理解し、それを出発点にしてさらなる一歩を踏み出している。第一論文で二次元と三次元のグラフを最大限に活用しながら、熱力学の基本方程式や相平衡の条件を導いたのだ。
 さらに第二論文では、エントロピーについてのマクスウェルの勘違いを指摘してさえいる。これに対しマクスウェルは、気を悪くするどころか、そのアイデアを即座に理解し、手放しで絶賛した。自著の改訂版の一章で「抜群に価値のある方法」と書き、ロンドン化学協会に出かけても「私自身と他の人々が長らく苦労して解けないでいた諸問題を、一瞬にして解くことができる」とギブズの天才について熱く語った。論文を 2 本書いただけの若造に、科学界のエースが贈る言葉としては尋常ではない。その喜びようは、論文に出てくる三次元グラフを、石膏模型として造らせたほどであった。大洋を飛び越えて、天才は天才を理解したのである。
 しかしギブズは立ち止まらなかった。1875 年から 1878 年にかけて、度肝を抜く第三論文「不均一系物質の平衡について」を発表。2 部構成、総ページ数 323 。例の、『コネティカット芸術科学アカデミー紀要』の出版委員たちを困惑させた破格の論文である。時期的にはちょうど、ボルツマンの第二の偉業、「くじ引き」論文に重なる。つまり、二人の天才は〈エントロピー〉という山を同時に、しかしまったく別のルートから攻略しようとしていたのだ。~~。ギブズの第一の偉業 ―― 熱力学の完成である。
 ~~。
 破格の長大さではあったが、内容があまりにも広くかつ深いため、表現は切り詰められた。しかも、物質の個性を削ぎ落として究極の一般化をめざしたため、文体は極端に抽象的なものになった。
「物体中で独立に変化しうると認識するために必要な近接成分の数が、その究極組成を表現するのに十分な成分の数を超えることは稀ではない」
 この文章の意味するところが、実は水蒸気と水素と酸素の混合気体である、といえば何となくその感じがおわかりいただけるだろうか。
 独創的アイデアがここまで圧縮されてしまうと、もはや「常人には理解不能の難解さ」と評することしかできなくなる。実際、論文を読んだ教授の一人が吐いたとされる、有名なセリフがある(件の出版委員会でのものと誤って伝えられているが)。
「古今東西の人類でこの論文を理解できるのは、マクスウェルただ一人だろう。だが、彼はもう死んでいる!」
 ~~。
 第三論文の第 1 部が出たとき、マクスウェルはまだ元気だった。さっそく、学会のスピーチでこれを紹介し、再びギブズを絶賛した。だが、第 2 部が完結した 1878 7 月には、前年からの胸焼けに苦しみ、ものを飲み込むのにも苦労するようになっていた。翌年 9 月には激痛の発作に襲われ、10 月には腸癌で余命 1 ヵ月と宣告された。だが死を目前にしても彼は、ギブズから送られた論文の比類なき重要性をまたもただちに看破し、強くヨーロッパ全土に紹介したのである。
 その死( 1879 11 5 日)の 2 週間前、見舞いに訪れた友人は、マクスウェルからあるものを誇らしげに見せられたという。マクスウェルはそれを、ベッドの上で掲げてこう言った。
「ウィラード・ギブズの曲面だよ!」
 それは、例の石膏模型だった。
 マクスウェルは模型を三つ造らせていて、その一つは海を渡ってギブズのもとに届けられた。
「生ける伝説」へ
 (PP. 190-191)
 いつしかギブズは、エールの「生ける伝説」と化していた。こんなエピソードがある。
 教授会で学部生のカリキュラム改善が議題にのぼり、強化すべきは数学か、語学か、で激論になった。そのとき、一度も口を開いたことのなかったギブズが突如立ち上がった。みなが息を呑んだところへ一言 ――「数学は、言語ですよ!」。
 電磁気学に関する論文を『ネイチャー』に投稿したあと、友人に、あなたの論文が出てましたね、と言われて「え? ほんとにあれを載せたの?」と驚いたという。
 また、こんな〝名言〟も吐いている。
「数学者は何でも好きなことを言える。だが物理学者は、少なくとも部分的には正気でなければならない」

6 章 ミクロからマクロへ ――「統計力学」の誕生

 

原子論論争とギブズ
 (P. 222)
 ところで、原子論論争の渦中にいたボルツマンは、同時代人ギブズをどうとらえていたのだろうか。ここで重要なのが、ギブズもマクスウェルと同様に「エントロピー増大は、本質的に統計的なもののように思われる」と書いている点である。
 ボルツマンはこれがいたく気に入ったらしく、自著の章冒頭でこの一文を掲げたほどである。~~。
ボルツマンの宿題
 (PP. 224-226)
 たしかに理想気体に関しては、ボルツマンの先駆的なアプローチによってエントロピーの算出は可能になっていた。「統計力学」のはじまりである。しかしそれを一般化し、任意の物質に適用することはいまだに容易ではなかった。道の先は、闇に消えている。ボルツマンの「くじ引き」理論が指し示しているはずの〈エントロピー〉の矢は、どこに隠れてしまったのか?
 ギブズの第二の偉業が果たしたのは、まさにこの闇の先を照らし出すことだった。~~。それは 1902 年にエール・カレッジ創立 200 周年に合わせて出版された『統計力学の初等的原理』という著書である。その序文で、ギブズは力強く宣言する。
「熱力学の法則は、統計力学の原理から容易に導かれる。それは統計力学の不完全な表現にすぎないのである」
 現在に至るまで、ギブズの統計力学における結論に誤りは見つかっていない。その後の量子論と科学技術の大波にもまれても、彼の神殿はびくともしなかった。それらをも、無限の包容力で抱き入れたともいえるその理論は、まさに科学史上の金字塔となった。1884 年の論文(位相空間の基本式導出)を皮切りに 18 年をかけて、ギブズはマクスウェルとボルツマンが到達した〈エントロピー=確率〉というアイディアと、ニュートンとハミルトンの力学を見事に融合させて「統計力学」を確立し、そこから熱力学のすべてを導き出したのである。
 この著書の中でもギブズは「分子」という言葉を繰り返し使っている。また、ミクロな運動論からマクロな熱力学を導き出すという戦略そのものから考えても、彼は明らかにボルツマン流の原子論の立場に立っている。しかもボルツマンの論文を「統計力学の出発点」として挙げている。これはいわば、ボルツマンの出した宿題に対する、30 年越しのギブズなりの解答 ―― 粗削りのボルツマンを精密化した〈力学の捧げもの〉なのだ(ただし、原子と分子についての曖昧な詳細はことごとく排除しているところがいかにもギブズらしい)。
 ~~。
 この著書で、ギブズは「アンサンブル(集合)」という統計力学に独特の概念を確立する。これはもともとマクスウェルがその死の前年に発案したもので、今日でも力学系に統計を導入するためのスタンダードな道具立てになっている。~~。各々にランダムな状態を割り振って、物理量の平均をとるという作戦である。ギブズは 3 種類のアンサンブルを考案した。
熱力学:統計力学 — entropy —

 

マクスウェル・ボルツマン・ギブズ

 

『不可逆過程の物理』 〔一柳正和/著〕

2  統計力学的エントロピー

2‑1‑1  ボルツマンのアンサンブル
 (P. 23)

 

 マクスウエル (1866) は、確率論的考察と粒子衝突に対して詳細釣合の条件から、気体分子(質量を m とする)の 1 粒子分布関数が決定されることを証明した。~~。
 (P. 24)

 

 ボルツマン (1868) は、マクスウエルの方法は「簡単すぎて信じ難い」としてより進んだ衝突過程の考察を行い、粒子に外力が働いている場合にも適用できる分布関数を求めた。~~。これは、マクスウエル-ボルツマン(平衡)分布と呼ばれる。
 マクスウエルやボルツマンの理論においては、実在の気体の粒子運動量分布を扱っているので、ギブスのような仮想的系の集団(次の項で述べる)をもちこむ必要はない。力学は、単に 2 粒子衝突過程で保存される物理量(すなわち、衝突の不変量)を介して理論に現われるのみである。
2‑1‑2  熱平衡系のアンサンブル
 (P. 25)
 ギブス (1902) は、一方では、ボルツマンの理論をヒントに、もう一方ではガウスの誤差論を援用して熱平衡系の統計力学を開発した。
 孤立系の力学は、基本的にはハミルトニアンを特定することによって論じられる。ボルツマンは、一定のエネルギーをもった孤立系は十分長い時間の後には熱平衡状態に到達し、その後はその周辺で小さなゆらぎが起こっているが事実上その状態に留まるという経験事実を「長時間平均値=アンサンブル平均値」という形のエルゴード性として定式化した。このことから、同一のエネルギーをもつ多数の孤立系を仮想的に考えると、どの孤立系も同じ確率で熱平衡状態に現われることが分かる。したがって、粒子系の位相 (Γ ) 空間の定エネルギー面の各点に孤立系の代表点が現われることを考慮すると、等確率の仮定の 1 つの根拠が見えてくる。これがギブスの統計力学の見方であって、孤立系の数は必ずしも十分に大きいとする必要はない。


 【ふろく】

 

e を底とする W の対数 (S = ln W ) の演算 (by JavaScript)

 ◉  ln W = log e W = log 10 ×  log e 10
e の値 2.718281828459045 :  W10 の場合の対数は 2.302585092994046
W の値  (選択してください) ⇒  対数 ( S = ln W ) は 

 

log 10 W 0.4342944819032518 ln 10 (2.302585092994046) log 10 W × ln 10 = 1

 ※ 〈対数〉を求める式は、〈底〉を何乗したら、〈 W 〉になるか、という「指数」部分の計算。
(読み:【指数】しすう・【対数】たいすう・【底】てい)

 

   ★ 例として、10 3 乗は 1000 だから、10 3 = 1000 ⇨  3 = log 10 1000 となる。

 

   ☆ e 7 乗は 1096.6331584284585 で ⇨  7 = log e 1096.6331584284585 となり、
     これは、W 1000 の場合の値に近い log e 1000 の値( W = 1000 の対数)は、約 6.9
   ◆ S = ln W のとき、Se を底とする対数関数、という。
   ◆ e を底とする対数を自然対数といい、e を自然対数の底という。

 

H 定理 と ボルツマン方程式 に つづく
INDEX
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