共同する生存者

 

『ヒューマン』  NHK スペシャル取材班/著〕

 

1  協力する人・アフリカからの旅立ち

 

~分かち合う心の進化~

浅井健博
 (PP. 92-96)
 私たちはアメリカの北西部、数多くの大学が集結するボストンへと向かった。~~。
 訪ねたのはハーバード大学の進化生物学者のマーティン・ノワク博士の研究室だ。ノワク博士はにこやかに私たちを迎え入れてくれた。東京大学や九州大学との共同研究も行っていて日本にも詳しい。
 科学雑誌『サイエンス』の記事でノワク博士はこう述べていた。
「協力は突然変異や自然淘汰と並ぶ、第三の進化の柱だと考えている。自然淘汰と突然変異だけでは、30 億年前の細菌の世界からいまのような世界にどうしたら至るかが説明できないのだ」と。これを読んだとき、ぜひ話を聞いてみたいと思った。
 ノワク博士は、協力がどのように進化してきたのか、そのメカニズムについて説いている。研究の柱のひとつは数学だ。進化を計算で紐解く。もうひとつは、心理学的な実験。人がどのように協力関係を構築するかを確かめたのだ。
 会議室に照明やクレーンなどの撮影機材をセットしインタビューすると、彼はこう語りはじめた。
「人間は協力のチャンピオンです。狩猟採集民の社会から国家間まで、協力は人間社会において組織を形作る決定的な原則だと思います。地球上のどの生き物も、人間ほど協力と寝返りの複雑なゲームに取り憑[つ]かれているものはいません。協力は 2 人の人間が一緒になると生じます。一方が何かしら相手に対して協力すると、他方の利益になる。もし私があなたを手伝えば、それは協力です。私が一定額の費用を払えばあなたの利益になります。そこで生まれる疑問は、なぜ自然淘汰が協力につながるか、ということです」
 自然淘汰は適者生存だ。それは競争である。本来、私たちは競争をしているわけだから、それは直ちに、ほかの人を助けるべきではないという意味になるかもしれない。それにもかかわらず協力は進化した。つまり、自然淘汰が協力につながる道筋があるということだ。
「これが起きるためには協力の進化メカニズムが必要です」
 ノワク博士は自分自身が考える協力の進化に関するメカニズムについて説明をしてくれた。もっとも重要なメカニズムは互恵性だという。互いに助け合うという意味だ。そして人間の営みを理解するのには 2 種類の互恵性があるという。
 ひとつは直接互恵性。直接互恵性とはたび重なる交流を指している。たとえば私があなたを手伝う。そして次の日にはあなたが私を手伝う。それから私があなたを手伝う。そして頻繁に会い、時間と共に私たちの関係は協力、友情と呼べるものに発展していく。これが直接互恵性だ。
 もうひとつのメカニズムがさらに重要だとノワク博士はいう。それは間接互恵性だ。私があなたを手伝うと、「私は頼もしい人間である」というよい評判が広がり、ほかの人もそれを知るようになる。そして私に協力をするようになる。「あそこに頼もしい人がいる。あの人に協力したい」という協力の仕方が間接互恵性だ。
 このふたつの互恵性を発揮するためには、私たちにふたつの能力が必要だとノワク博士は考えている。記憶力と言葉である。
「人は繰り返し人と会います。繰り返しの接触で何が起きたかを記憶し、同時にほかの人との接触を繰り返し、さまざまな人と交流します。記憶する能力は直接互恵性にとってもっとも重要な要素です。次に間接互恵性を可能にするためには、評判が広まらなくてはいけません。評判を伝えるには言語が必要です」
 この関係をノワク博士はじつに魅力的な修辞で簡潔にまとめてくれた。
「つまり、直接互恵性には顔が必要であり、間接互恵性には名前が必要だということです」
 博士は、間接互恵性と言語は共に進化したと考えている。言語が発達すればするほど、間接互恵性はより効率的になるし、間接互恵性が重要さを増すと、より複雑な言語が必要になる。
 ノワク博士の話を聞いていても、普段自分たちが行っている些細[ささい]なことが、じつはたいしたことのように思えてくる。
 しかし一方で人間社会は協力ばかりでないと言いたくなる。先に書いたように、人間には二面性があるではないか。
 ノワク博士にそのことについても聞いてみた。社会は、非協力者という課題を抱えている。非協力者が出現し、成功することで、協力というシステムが崩壊する可能性はつねにあるではないか ―― 。
 ノワク博士の答えはイエスだった。博士が行っている数値計算でも、協力は決して安定したものではなく、つねに利己的な者に脅かされているのだという。
「協力は破壊され、再び回復したとしても、再び破壊されます。私たちは協力の進化のために集団のなかで絶えず戦っています。これは協力と人間の進化の大変重要な面です」
 やはり、そうなのだ。そこは避けて通れないことなのだ。
 博士は、金融市場における協力も研究対象としている。協力が脅かされるという宿命は、金融市場にも似た面があるそうだ。
 金融市場には、規制制度があり、人はその制度内で協力して共に働く。しかしそのうちに、抜け穴に気付き、不当に儲[もう]ける者が現れる。これは、脳科学者のシーモア博士がいう「不当な搾取」ということだろう。
 不当に儲ける者の出現は、全体の危機を招くとノワク博士はいう。
「市場は損なわれて、グローバル的な危機に陥ります。そうすると、そこからさらに新しい規制ができて、それが新しい協力につながります。しかし、それも誰かが新しい規制の抜け穴に気付くまでです」
 では、協力を脅かす不当な行為に対し、私たちは罰という鞭[むち]で対抗するほかないのか。
 その点について、ノワク博士は「罰だけではない」と語った。たとえば、ひとつの会社を考えてほしい。その会社で働く社員のあいだに、確固たる協力態勢を築きたい。そのためには、社員一人ひとりに協力をしてもらう必要がある。そんなとき、どのようにするのがよいか。
「確かに、ひとつの方法は罰でしょう。一生懸命に働かなければ罰せられるというものです。しかし、これでは好ましい協力態勢は作れません」
 罰だけしかない状況では、人は罰せられないような最小限だけ働くようになる、と博士はいう。罰だけではダメなのだ。
「じつは協力を導くよい方法は報酬です。成功や工夫に対して報酬を与える。そうすると、人はできるだけ報酬を得ようと全力で共に働き、創造力を発揮します。これが人を協力に導く重要な設計です」
 重要な動機付けは、報酬なのだ、と博士は繰り返した。
「気前がいいこと、希望を持つこと、寛容であること。この戦略が協力を生み出すのです」
 ノワク博士の話を聞いていると、人間が協力を進化させるためには、さまざまな条件が必要だったことが窺える。
 そして、そうした条件の一つに、じつは私たちの祖先に降りかかった試練もあった。
 私たちの祖先に飛躍を促した大きな原動力は、襲いかかった環境変動であることが浮かび上がってきているのである。

そして、祖先たちは生き残った……

 

 (PP. 112-116)
 ケニアの首都ナイロビ。東海岸のアフリカらしいアフリカを訪れるのは初めてのことだった。町は活気にあふれていた。
 今回の撮影は、イリノイ大学教授のスタンレー・アンブローズ博士の遺跡の発掘に同行するのが目的だ。アンブローズ博士はトバ火山の噴火が、アフリカの祖先たちに影響を与えたという説を強く支持している。トバ火山の噴火が起こったと考えられる 7 5000 年前頃から 5 万年前頃までのあいだ、人類の祖先たちが住んでいたであろう東アフリカから、考古学的な記録が消えている。それが支持する理由だ。
 アンブローズ博士は東アフリカという地域のプロである。その博士がその時代の遺跡だけを見つけることができないという。
 博士は、私たちをナイバシャ湖に案内してくれた。そこが、トバ以前の祖先たちの暮らした環境に似ているというのだ。
 ナイバシャ湖は、緑豊かな自然に囲まれた美しい湖だ。周りには動物たちが群れている。湖上を渡るフラミンゴ、草原を走るシマウマやインパラ、イノシシ、カバ、そしてキリン。いくらでも食べる物がある桃源郷のような豊かな光景だ。こんな光景が、狩猟採集を行っていた祖先たちの前に広がっていたはずだとアンブローズ博士は話してくれた。
 一方、トバ火山の噴火後には、どうなったのか。
 その風景をイメージするために博士が選んだのは、ナイバシャ湖から南へ車で 2 日がかりで移動したナトロン湖だった。
 その湖をめざして南に行くにつれ、標高が下がり、一気に空気が乾燥する。緑は消え、気温がどんどん上昇する。しかも細かな砂地の道なき道を行くため、次第に車のなかに、細かな砂塵[さじん]が舞いはじめる。カメラは埃[ほこり]に弱いので、急いで密封容器に入れ、私たちもマスクやタオルで口を覆う。この車内がもっとも辛[つら]い。
 きらびやかな衣装を身につけたマサイの人たちの村をいくつも越え、マサイが経営するロッジを宿にとった。ごく近くでライオンの咆哮[ほうこう]を聞きながら一夜を明かし、ようやくの思いで目的の湖に到着した。
 そこには、桃源郷とは隔絶した、過酷な光景が広がっていた。
 乾燥しきった状態で気温は 40 度を軽く超えている。日陰もない。少し辺りを探せば、すぐに動物たちの骨にぶつかる。
 そのふたつの光景を見比べたときに、気候学者のロボック博士が語っていた気候の変化のすさまじさが番組でも表現できると思った。
 生あふれる世界から、死と隣り合った世界 ―― 。二つの世界はそれほどに隔絶していた。
 博士は、トバ火山の噴火が、当時アフリカに住んでいた人類の祖先に大きな影響を与えたと考えている。しかし、生き残った者が強き人たちだったとは考えていない。それはなぜか。
「闘った者たちは生き残らなかったと思うからです。隣人と争えば、必要なときに信用されないのです。確かに、環境が豊かなときは人々が幾つかの領土に住み互いに対立しながら自分の領土を守ろうとしていたかもしれません。しかし、そうした戦略のままでは守る資源が尽きてしまうと、とたんに人々は飢餓に苦しみます。食料源のある場所を探しあてても、そこがすでにほかの領土だったりします。分かち合わない者はすぐさま死に直面したでしょう」
 そこでカギとなる存在は、長距離に住む友人関係のある相手だ。住んでいる地域が離れていれば、食料事情が異なっている可能性が出てくる。その一方、離れていれば、日常的な交流はない。そのジレンマのなか、友人関係を維持している相手がいるか否か。
「分かち合い、協力することを学んだ者たちが生き残り、トバ噴火後の世界に子孫を残したと思います。社会的関係やライフラインのネットワークを確立することがこの生存戦略のカギです。雨が降らなくなり自分たちの領土内の食料と水が尽きたとき、友人たちを訪れることができます。友人たちに十分な食料源があれば、滞在をさせてもらい生き残ります。逆に彼らの地域で飢饉が起きて食料源が尽きれば、彼らを受け入れます。このような戦略を適用した人々は、生存した可能性が高いと思うのです」
 アンブローズ博士がそう考える根拠はあるのだろうか。じつはある鉱物に注目している。
 私たちはアンブローズ博士に案内されてナイバシャ湖の近くにあるマーモネット遺跡を訪ねた。博士の発掘フィールドだ。トバ火山の噴火よりも以前の時代の地層を掘ると、ぼろぼろと矢尻[やじり]が出てくる。その原料が、アンブローズ博士の注目している黒曜石という鉱物だ。
 黒曜石は、外見は黒くガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面を示す。アンブローズ博士は、実際に石を割った破片で、自分の腕の毛を剃[そ]るシーンを披露してくれた。当時は、ナイフや矢尻などの材料として、また呪術具[じゅじゅつぐ]やアクセサリーの原料として使われていたと考えられる。
「興味深い点は、このような遺跡で黒曜石で作った道具が数多く発見できることです。それぞれの黒曜石は、私たちの DNA のように個々の化学的特徴があります。遺跡と原料の産出地の距離を知れば、人々が黒曜石を集めに歩いたのか、ほかの人と取引をしたのではないかと想像できるのです」
 この黒曜石、外見は同じでも、蛍光 X 線装置を使って分析すると、組成の違いで特徴が分かれ、産地を特定することができる。
 もし、遺跡でみつかった黒曜石が 40 キロメートル以上離れた産地のものだとしたら、その地域の人々とものを交換する関係があったと博士は推定している。40 キロ以上にもなる距離を生活範囲にしていたとは思えないからだ。つまり、その黒曜石は自力で掘り出したのではなく、その地域の人々から受け取った、つまり、その人々とのあいだに強い関係があったということになる。
「逆に、地元の石しか使っていなかったら、人々は領上に留まり外部との関係がなかったといえます」
 マーモネット遺跡で発見された矢尻の原料の黒曜石はいったいどこで産出されたものなのだろうか。石の組成が合致すれば、原料は同じ産出地だということになる。アンブローズ博士は、マーモネット遺跡の周辺のいくつもの黒曜石源を何日もかけて歩き回り、10 キロ離れたソナチと呼ばれる場所が産出地であることを突き止めた。
 その産出地のソナチも私たちは訪れた。10 万年以上も前に、祖先たちが採掘した跡が残されている。あまりにも大きい黒曜石の塊で、採るのをあきらめた跡が生々しく残っているのを見ると、当時の人たちが生きていた鼓動が感じられる。
 ソナチから産出された黒曜石がどこまで流通しているのか。アンブローズ博士は次に、周辺の遺跡から出土した矢尻の組成分析をはじめた。その結果、70 キロ以上も離れたナトゥカ遺跡からソナチ産の黒曜石が発見されたのだ。それは、トバ火山の噴火以降の時代の地層からだった。ソナチから産出された黒曜石の流通する距離が、トバ火山の噴火の時代を境にして変化していることにアンブローズ博士は気づいたのだ。
「ここから 70 キロメートル南のリフトバレーの遺跡で調べたところ、トバ火山噴火前の層を見ると、石器道具のなかに黒曜石を使ったものがありますが、その数はきわめて少ないんです」
 この遺跡のそばには、豊富な黒曜石の産地がない。そのため、ほとんどの石器道具は溶岩や石英でできていて、わずか 10 % が地元の黒曜石を使っていたという。
「ところが、トバ噴火後の層では場所によって黒曜石の占める割合が、45~65 % にも跳ね上がりました。つまり、黒曜石の使用量が 5~6 倍も増加していたのです。この量を見るだけで、遠くから得た黒曜石がずっと増えたことが分かります」
 それは、噴火の前後で、交流の規模が大きく変わったことを反映しているに違いないと博士は推定している。

 

 (P. 117)
 ここで思い出してほしいのは、fMRI で共感の脳活動を計測していたシーモア博士の研究である。人が痛みを覚えている映像を見て、その痛みに同情する場合と、反対に快感に感じる場合があることを示してくれた。人間の共感する能力は、つねに同じように働くわけではない。痛みを受けていた人を公正な人間と思っているか、不公正な人間と思っているかによって、その反応は正反対のものになっていた。
 たとえばトバの危機のとき、わずかな食料を前に二つの部族が鉢合わせになったとしよう。そのグループが初対面だったとすると、どうしたのだろうか。
 シーモア博士の研究結果を援用すると、お互いに相手が公正だと思えば、共感のスイッチが入る。飢餓に苦しむ相手を思いやって、分け合うという選択を選んだかもしれない。しかし、相手が不公正と思えば、激しい闘いがはじまったかもしれない。

 

 (PP. 118-120)
 私たちは、二つの心のあいだで揺れるほかない。
 トバ噴火後の氷河時代、闘ったか、分かち合ったか。あるいは、その両方だったのか。いつも必ず分け与えるとか、いつも闘うとか、その行動が決まっていたのではなく、ときに闘い、ときに分け合うという使い分けもあったかもしれない。
 答えは永遠の謎だ。
 しかし、取材を通して、私自身は、分かち合ったのではないかという気がしてならない。いつも、というわけではなかったかもしれないし、誰とでも、というわけでもなかったかもしれない。それでも、分かち合っていたのではないか。分かち合ったとき、喜びを感じたのではないか。
 そう思えるのだ。
 その推測を励ましてくれる研究報告がある。この章の最後はそれを語ろう。
 トバ噴火から 7 万年以上経った現代 ―― 。
 私たちは、まったく見ず知らずの人と「分かち合う心」を持っているのか、を調べようというプロジェクトが進められている。
 カナダのバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学の、ジョセフ・ヘンリック博士を中心としたグループは、世界中の 15 の民族で心理実験を行い、その「分かち合いの心」の実態を調査してきた。彼らが書いた論文の共著者である、イギリスのケンブリッジ大学に所属するフランク・マーロー博士の調査に私たちは同行した。
 2010 年の 7 月、マーロー博士は狩猟採取民のハザの人々を対象に心理実験を行うべく、タンザニアに出掛けていた。私たちは現地のホテルで博士と合流し、ハザのキャンプに向かった。
 実験は、独裁者ゲームといわれている。2 人の匿名のプレーヤーに、ある金額が割り当てられ 1 回限りのやりとりが行われる。プレーヤー 1 は、自分とプレーヤー 2 とのあいだでこの金額をどのように分けるかを決めなければならない。プレーヤー 2 は、割り振られた金額を受け取り、ゲームは終わる。プレーヤー 1 がプレーヤー 2 に対して提示した金額は、この脈絡におけるプレーヤー 1 の行動の公平性の尺度となる。
 与えられる金額は、おおよそその国で 1 日働いて稼ぐことのできる金額だ。たとえばプレーヤー 1 の立場に立つ場合、日本円で 1 万円渡されて、誰か匿名の人とこれを分ける場合に、自分がいくら取って、相手にいくらあげるかという質問だ。
 ~~。
 さて気になる結果だが、ハザの人の結果を平均すると、自分が 74 % をもらい、相手に 26 % を渡すという結果だった。
 マーロー博士は、ハザの村でバオバブの木と夕焼けを背景に次のように語ってくれた。
「私たちはチンパンジーのようには行動しません。彼らは可能ならすべて自分のものにします。また、相手の申し出を拒否することもありません。彼らはつねに受け取ります。でも、ヒトはどんな社会でも、一番人口の小さい社会から一番人口の大きな社会まで、そんなことはしません。ヒトは、まったく必要ないのに与えます。そして、適当であると考えている量がもらえないと腹を立てます。このゲームで、見知らぬ人には何もあげない事例は、いまのところ、私たちはどの社会でも見ていないのです」
 この実験は世界中で行われて、その結果をとりまとめたのが、先に紹介したジョセフ・ヘンリック博士の論文だ。このなかで、不思議に思えたのは、もっともお金を分かち合おうとしたのは、アメリカだったということだ。つねにものを分かち合っているハザの人たちよりも、マネーゲームが横行している文明社会に生きる人たちの方がより分かち合いの心を携えているということに私は正直、驚いた。
 マーロー博士はその背景にある私たちの心をこう評した。
「人口の規模がどんどん大きくなると、それだけ、社会を調和させていくのは困難になります。しかし、大きな社会に住む人々は、それをなんとかしようと尊い努力を続けている。この結果は、その表れだと思います」
 見ず知らずの相手とさえ、分かち合うという心は、確かに祖先たちから受け継がれ、いま私たちのなかにもある。
 その心がいつも私たちを支配しているわけではないけれど、秘[ひそ]やかに、確実に生きているのである。
 トバ火山の噴火による寒冷化の影響を切り抜けた人類は、その後出アフリカを果たす。
 ミトコンドリア DNA データは少人数集団の 1 回の出発だったことを示している。人類に関する考古学の権威であるクリストファー・ストリンガー博士(ロンドン自然史博物館)はアフリカを旅立った人達についてインタビューでこう答えた。
「ミトコンドリア DNA の増殖数は、数百人だけの女性と推測してますが、全人口はそれより多かったに違いありません。私の考えでは確実に何千人です。ですから 1 回以上の出アフリカがあったかもしれません。短期間に 2 度アフリカを出たかもしれないことを示唆するデータがあります。いずれにせよ少人数の集団が、その後アフリカ以外の大陸に住む人類の祖先になるのです」

2  投げる人・グレートジャーニーの果てに

 

~飛び道具というパンドラの箱~

大坪太郎
 (PP. 124-125)
 第 1 章が故郷アフリカを舞台に人間の「最初の心」を探る物語だったとすれば、この第 2 章は世界中へ広がるグレートジャーニーという旅が舞台であり、「全世界に広がることを実現した心とは何か」を探っていくのがテーマということになる。
 このグレートジャーニーの最初の一歩、すなわち故郷のアフリカを離れることになった大事件を「出アフリカ」と呼ぶ。それはいまからおよそ 6 万年前、紅海をわたりアラビア半島に出たというのがもっとも有力な説だ。
 しかし「出アフリカ」は人類にとって一度の体験ではない。ホモ・サピエンスに先行して、ホモ・エレクトスと呼ばれている先行人類が最初の大規模な出アフリカを果たしている。私たちが学校で習う北京原人やジャワ原人は、このホモ・エレクトスの一派に当たる。それよりも前の段階(つまり、昔風にいえば、猿人と呼ばれるような初期の段階)で、すでにアフリカを出ていたのではないかとする意見もあり、まだ出アフリカの全貌[ぜんぼう]は分かっていない。新しい化石が見つかって、定説が覆ることもしばしばだ。
 しかし、私たちホモ・サピエンスの出アフリカについては、化石のほかに、DNA による探究という強い武器があるため、かなり詳細に分かってきている。そのなかで、最近になってはっきりしてきたのは、ホモ・サピエンスの出アフリカも、一度の出来事ではないということだ。いま世界中にいる私たちの祖先がアフリカを出たのはじつは、その 2 回目の挑戦の結果だったのだ。成功に終わった 6 万年前の出アフリカよりずっと前、いまから 12 万年前に祖先たちは一度、アフリカを出て、ユーラシア大陸へその勢力を広げようとした。しかし、その試みはある理由のために、もろくも崩れ去ったのだ。ホモ・サピエンスはリターンマッチの末に、ようやく出アフリカを果たしたという歴史を秘めていたのである。

 

 (PP. 129-131)
 ネアンデルタール人は、私たちホモ・サピエンスとは兄弟か従兄妹[いとこ]のような関係にある人類だ。もともとはアフリカにいた同じ祖先をもつ。60~50 万年ほど前に枝分かれした一団がアフリカを離れ、ヨーロッパに向かった。その集団の子孫がネアンデルタール人だ。ネアンデルタール人は寒冷なヨーロッパで暮らすうちに、体温を保ちやすくするため頑丈な骨格を手に入れた。肌の色も白くなり、髪は赤毛が多かったという。色が白いのは、くる病対策と考えられている。高緯度地域は年間の日照時間が短い。十分な時間、日光(紫外線)を浴びないと、体内で十分な量のビタミン D が合成されない。これがくる病の原因になるので、それを避けるため、肌が白くなり、少ない紫外線でもビタミン D が合成できるように適応したわけだ。
 ~~。
 ネアンデルタール人の化石のなかでは 1830 年にベルギーで発見された子どもの頭骨がもっとも古い発見だが、その正体は分からないまま放置された状態だった。科学論争に発展したのは、1856 年にドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷で見つかった化石だ。この化石を「ケルト人以前のヨーロッパの住人のもの」と考える一派と、「くる病や痛風にかかって変形した現代人の老人の骨」とする一派に分かれて論争が繰り広げられた。当時の大家は後者の説を主張する人が多く、2 年後の進化論発表を受けて再検討がされ、ようやく前者の見解が優勢となったという。その意味で、ネアンデルタール人は、私たちホモ・サピエンスが神がつくったものではなく、進化を重ねて生まれた歴史的な産物であることを窺[うかが]わせる最初の証拠となったのだ。
 このネアンデルタール人、体つきも北方仕様であり、実際の生息地もヨーロッパだったため、本来なら、アフリカを出てイスラエルに至った私たちの祖先と関わりをもつことはなかったかもしれない。ところが、当時はちょうど氷期の最盛期に向かう寒冷化の時代だった。この事情が思わぬ運命をもたらすことになった。
 ~~。
 ネアンデルタール人も、南下を余儀なくされた生き物のひとつだ。厳しい寒さに加えて、獲物である生き物も南へ移動していけば、ハンターたるネアンデルタール人も後を追うということになる。そのため、北に偏っていた彼らの生息域は次第に南に下がっていくことになったのだ。

 

 (P. 132)
 ふたつの人類の遭遇劇には、地理的な条件も重なった。お手元に世界地図があれば、ぜひ確かめてほしい。古くからレバント地方と呼ばれてきた現在のイスラエル、レバノン、シリアの地中海沿岸は、西に地中海、東は広大な砂漠地帯に挟まれた狭い回廊のような地域だ。もし、アフリカ大陸からユーラシア大陸へ陸路で向かおうとするなら、このレバント回廊を通るしかない。逆もまた、しかりである。
 事実、古代エジプト文明の頃や十字軍の遠征などの時代に、レバントは交通の要所としてその名を歴史に刻んできた。それは、そのはるか以前の石器時代でも同じだったのだ。地球規模の気候変動をきっかけに、獲物を追って南からはホモ・サピエンスが、北からはネアンデルタール人が、この狭い回廊にやってきたのである。

 

 (PP. 133-134)
 人類に関する研究は何となく、「もっとも優れた私たちホモ・サピエンスに至る歴史を解明するもの」という印象がある。現在だって、学者のなかには、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスを比べると、「私たちホモ・サピエンスがあらゆる面で優れている」とばっさり発言する人も少なくない。
 しかし、レバントでの挫折[ざせつ]は、そうしたホモ・サピエンスの優位性がいつも絶対に揺るがないわけではないことを示したのだ。
 では、いったん失敗したのち、私たちはどのように世界に広がったのだろうか。
 それを解き明かす大きなカギが、やはりここカルメル山の「洞窟の谷」にある。
 三つめの洞窟、〝勝利〟という意味をもつエル・ワド洞窟の登場だ。スフール洞窟とタブーン洞窟のちょうど中間に位置し、人が立って歩ける空間が、ずっと奥までつづいている。
 イスラエルの夏は暑く、昼間は 40 度近くまで気温があがるが、洞窟内は涼しく快適だ。~~。
 ここに住んでいたのは誰か? エル・ワド洞窟からは、膨大な石器と、食料となった動物の骨が見つかっている。さらに数多くの穴の開いた貝殻と赤い顔料。協力の証。そう、ここに住んでいたのは紛れもないホモ・サピエンスだったのだ。出土した遺物の年代は、およそ 4 万年前から 1 万年前まで。祖先たちは、再びレバントに現れ、カルメル山に定着していたのだ。
 では、ネアンデルタール人はどうなったのか。スフールとカフゼーのホモ・サピエンスが消息を絶って以降、カルメル山のタブーン洞窟をはじめ、レバント地方にはアムッド(イスラエル)、ケバラ(イスラエル)、デデリエ(シリア)といった洞窟でネアンデルタール人の化石や遺物が見つかっている。ところが、4 5000 年前以降はまったく見つからない。レバントから消えてしまったのだ。
 それと入れ替わるように、この地を支配したのが再び進出してきたホモ・サピエンスだったのである。彼らこそ、二度目の出アフリカを果たし、グレートジャーニーを完遂させた集団の一派だ。およそ 6 万年前にアフリカを出て、アラビア半島に渡り、あるものはインドを経て東南アジアやオーストラリア、東アジアへ。またあるものは現在のイラクやヨルダンを経て、ここレバントに入り、さらにヨーロッパへと進出していく。そして、ついには、南極をのぞく地球上の全大陸へその生息域を広げることになる、現在の私たちの直接の祖先なのである。
 しかし、ここで大きな謎にぶつかる。なぜスフールやカフゼーにいた〝先発組〟のホモ・サピエンスはレバントから先へ進めず、この〝後発組〟のホモ・サピエンスだけが世界に広がることができたのだろうか。同じホモ・サピエンスであり、そのあいだに身体的な特徴を一変させるような進化を遂げたわけではないのだ。
 いったいなぜ、私たちの祖先はリターンマッチに勝利することができたのか。

 

 (PP. 142-143)
 この戦い ―― 私たちの祖先とネアンデルタール人の戦い ―― は、大きな意味を内包していると思う。これは、「身体」と「文化」の戦いともいえる。
 基本的に、生存競争に勝つというのは、遺伝子による進化の賜[たまもの]だ。あるいは、環境との適応の賜である。より有利な進化を獲得すれば、生き残る可能性が高まるし、生息している環境にマッチするようになれば、その分、生き残る可能性はやはり高まる。
 ネアンデルタール人だって、石器をつくり、駆使し、さまざまな「文化」を創出していた。イラクで見つかった遺跡からは、埋葬されたネアンデルタール人化石とともに大量の花粉が見つかっている。これは、「死んだ仲間に花を手向けたのではないか」と解釈する研究者もいて、相当に私たちと似た心をもっていた可能性は強い。
 それでも、その戦いは、身体に頼ったネアンデルタール人と、道具を自在に使った私たちホモ・サピエンスの戦いという一面をもっている。特に、わずか数万年の間隔を置いて、リターンマッチに成功したというのは、身体の進化に頼っていない可能性が大だ。その勝因のひとつは、投擲具という「文明の利器」だったのだ。
 寒冷化が進む環境のなか、熱帯仕様の私たちホモ・サピエンスが、寒冷地仕様のネアンデルタール人を駆逐していくという事態は、それまでの生命世界の掟[おきて]からいえば、相当に例外的なことだ。逆にいえば、この勝利は人間がいままでの生物とは違い、文化の創出 ―― 新しい行動、新しい工夫、そして、新しい心 ―― によって、勢力を広げていく生物になったという高らかな宣言なのである。
 身体の変化ではなく、文化で環境に適応していく。その強みはすぐに明らかになる。
 出アフリカを果たした後発組のホモ・サピエンスはその後、またたくまに世界中の大陸に進出し、広大な生息域を築いていくことになる。
 現在で考えれば、たとえば北欧に住んでいる人々は肌が白く、比較的大柄な身体をもっているし、熱帯地方の人々はメラニン豊富な黒い肌で紫外線を防ぎ、小柄な身体をもっている。ある程度、その土地その土地の環境に合わせた身体的特徴を進化させていったのは、ホモ・サピエンスもほかの生物やすでに絶滅してしまった先行人類たちと変わらない。ただ、その進出スピードの速さはやはり文化で適応した能力が高い証[あかし]だろう。
 ~~。
 グレートジャーニーという壮大な旅。特にその猛烈なスピードを生み出した理由のひとつは、文化によって適応するという、私たちの祖先が獲得していた新たな戦略にあったといえるのである。
 そして、投擲具 ―― 。
 グレートジャーニーでは、飛び道具が大きな役割を果たしていたことを窺わせる証拠が世界各地で見つかっている。

 

 (PP. 145-146)
 ところで、同じホモ・サピエンスながら、先発組のスフールやカフゼー洞窟からは飛び道具の痕跡、すなわち石刃と小型動物の骨は見つかっていない。私たちの祖先はいつどこで飛び道具を手にし、それを使うようになったのだろうか。
 飛び道具の起源を探る研究者に会うことができた。アメリカ、ジョージ・ワシントン大学のアリソン・ブルックス博士だ。アフリカ各地にフィールドをもつ女性考古学者で、人類の進化をめぐる解釈を大きく変えた研究で知られる。主要な研究テーマは、私たちホモ・サピエンスが現代的行動をいつからするようになったかということだ。
 第 1 章でも触れられているが、博士のいう現代的行動とは、道具の種類の多様化、アクセサリー、長距離交易、芸術、儀礼行為などを指す。最先端の人類研究の大きなテーマだ。これらの行動は現代の私たちにも共通するもので、その始まりを探ることはその行為をなす精神、すなわち私たちの心の源流を見つけるということになる。
 これについてそれまで主流となっていた説は、アフリカで生まれたホモ・サピエンスは、約 5 万年前に革命的に脳(の神経)を進化させ、それを遺伝的に受け継いだ集団が出アフリカを果たし、ヨーロッパでラスコー洞窟などの芸術を開花させたというものだ。「神経仮説」や文化の「ビッグバン仮説」と呼ばれる。
 ブルックス博士は、この説に真っ向から反論した。2000 年にコネチカット大学のサリー・マクブレアティ博士と発表した「革命はなかった」と題する論文で、現代的行動は 5 万年前に突然現れたのではなく、そのずっと以前からアフリカ各地で散在的に現れていたと主張したのである。
 その根拠となるのが、最近になってアフリカ各地で見つかっている考古学的証拠だ。第 1 章でも紹介された南アフリカのブロンボス洞窟で発見された顔料や貝でつくったアクセサリーもその代表的なもののひとつだ。
「アフリカにいた私たちの祖先は、9 万年前には十分に現代的でした。彼らには私たちと同じように考えることのできる脳があり、言語、精神性、宗教など現代の私たちと同じものをもっていたのです。もしも当時、技術的・社会的な環境があったなら、彼らはコンピューターさえ発明していたでしょう」
 実際に、アフリカで現代的行動を窺わせる証拠が次々と見つかってきていることで、博士たちの主張は説得力を増しているといえよう。対して「ビッグバン仮説」は、ヨーロッパはアフリカに比べて発掘調査が進んでいるがゆえの見かけ上の飛躍かもしれないという点から再検討もされている。
 では、飛び道具もアフリカですでに使われていたのだろうか。各地で発掘調査を行ってきたブルックス博士は、私たちにいくつかの石器を見せて説明してくれた。
「これは東アフリカの複数の遺跡で見つけた尖頭器[せんとうき]と呼ばれる石器です。これはエチオピア、これはアルジェリア、そしてこちらはカラハリ砂漠で見つけました。不思議なのはその大きさです。ふつうの尖頭器より小さいのです。約 9 万年前以降にこうした尖頭器が見つかります。これは突く槍にしては、あまりに貧弱です。どう考えても、投げて刺すためにつくられたものに違いありません。形は地域によってまちまちですが、アフリカの広範囲で飛び道具の技術があったのだと思います」

 

 (PP. 177-178)
 ダンバー数という言葉をご存じだろうか。イギリス、オックスフォード大学の人類学者、ロビン・ダンバー博士が提唱する、私たちがひとりひとりをきちんと認識できるのは、150 人前後の集団までという考えだ。どうしてこんな数字が出るのか、少し解説をすると、こういうことだ。
 まず、私たちヒトを含めたサルの仲間は、脳のなかで意識的な思考や記憶を司[つかさど]る大脳新皮質のサイズと、ひとり( 1 頭)が一度に築ける関係=集団のサイズが比例するという。たとえばテナガザルはおよそ 15 匹、ゴリラは 34 匹、オランウータンは 65 匹といった具合だ。
 この法則に従えば、私たち人間の集団の大きさは 148 人ということになる。ダンバー博士は、世界各地約 20 の狩猟採集民を調べ、その平均的な集団サイズをつきとめた。集団サイズと一言でいうが、何を条件にするかで数は違ってくる。たとえば、ふだん一緒に移動して、狩りをしたり、寝泊まりしたりする集団となると 30~50 人が平均だ。これが狩猟採集民の最小ユニットである。博士が注目したのは、「氏族(クラン)」と呼ばれる単位で、これはふだんの生活は別々だが、同じ狩り場や水場を利用したり、時折集まっては祭りや儀式を行う、いわゆる顔見知りの者同士のネットワークの大きさだ。その数は平均で 153 人。先ほどの脳のサイズから算出した数とほぼ一致する。
 この数が当てはまるのは狩猟採集社会だけではない。古代から現代社会まで、文明社会を構成する集団にもよく合致する数なのだ。たとえば紀元前 100 年ころのローマ軍の歩兵中隊は 120~130 。近代的軍隊では最小の独立部隊となる中隊の人数は 130~150 。学術研究で研究者同士が注目しあえる領域は 100~200 人の研究者がいる範囲で、研究者の数がそれを超すと、いくつかの領域に細分化されていくのだという。
 さらに、博士はフェイスブックなどソーシャル・ネットワーク・サービスについても調べた。そして二つのことを発見したという。まず、ほとんどの人は 200 人以下の平均的な数の友だちしかおらず、200 人以上いる人はほんの一握りだということ、もうひとつは、友だちが 200 人以上いる人でも、そのうち相当数は相手のことをほとんど、あるいはまったく知らないということだ。実質的には 200 人以下なのである。
 このように私たちは、自分たちの脳の大きさだけに頼るのであれば、150~200 人程度のネットワークが上限になっているのだ。

 

 (PP. 186-187)
 私たちが訪ねたのは 11 月、晩秋のアキテーヌだった。パリから陸路で 7 時間あまり。~~。
 ヴェゼール渓谷。ボルドーからドルドーニュ川を 100 キロほど遡[さかのぼ]った場所にある。ここには先史時代の 147 の集落跡と、26 の壁画が描かれた洞窟があり、30 年前から世界文化遺産に指定されている。なかでももっとも知られているのがラスコー洞窟だ。1 5000 年前に祖先たちが描いた壁画が残されている。現在は保存のために閉鎖されていて、実物を見ることは研究者でも難しい。代わりに非常によくできたレプリカが実際の洞窟のそばに再現され、一般に公開されている。黒、赤、黄、茶色などの顔料を使い、見事に描かれた動物たち。描いたのは後発組のホモ・サピエンスのうち 4 2000 年ほど前に、ヨーロッパに進出した集団だ。その骨が見つかった遺跡からクロマニョン人の名で呼ばれている。ホモ・サピエンスの一団だ。彼らの骨もここヴェゼール渓谷から見つかっている。
 彼らが描いた壁画はラスコーだけではない。ヴェゼール渓谷だけでも 26 か所で見つかっているし、アキテーヌ地方の南側、ピレネー山脈を越えたスペイン北部にはラスコーと並び称されるアルタミラ洞窟がある。また、アキテーヌ地方を東へ進んだフランス南部では、1994 年、壁画が描かれた新たな洞窟が見つかった。ショーヴェ洞窟と呼ばれ、ラスコーやアルタミラと比べても遜色[そんしょく]のない、見事な動物たちの絵が描かれていた。時代は 3 7000 年前、ラスコーやアルタミラよりずっと前だ。年代が測定できるものとしては人類最古の絵画といわれている。
 このおよそ 3 7000 年前という時代以降、アキテーヌを中心とした地域一帯で、芸術や文化の〝爆発〟が起きた。壁画以外にも鳥の骨でつくったフルート( 3 2000 年前)、マンモスの骨でつくったヴィーナス像( 2 5000 年前)、服を縫うのに使った小さな針( 2 5000 年前)などが複数の遺跡から見つかっている。
 なぜこの時期に、この地方で、芸術や文化が生まれたのか。これは研究者のあいだで、活発に議論されてきた古くて新しいテーマだ。

 

 (PP. 188-191)
 フランス国立科学院の考古学者、ジャン・ミシェル・ボケアペル博士は、ヨーロッパ全域の遺跡の分布を調べ、その変遷から各地域の人口の増減を探っている。そこで分かったのは、当時のヨーロッパの気候が人口の分布に大きな影響を与えていたという事実だ。
 クロマニョン人たちがヨーロッパに進出したあと、およそ 4 万年前から 3 万年前までの遺跡の分布をみてみよう。北はドイツ北部からポーランド、南はイタリア南部に及ぶ広い範囲で暮らしていたことが分かる。しかし、3 万年前以降、遺跡の分布は狭まり、2 万年前になるとフランス南西部(現在のアキテーヌ地方)や南部、スペイン北部に集中するようになる。
 これは地球全体を襲った氷期の影響だ。北極付近にあった氷河が南下し、もっとも寒くなった 2 万年前には、イギリスのほぼ全域やドイツ北部まで覆うようになった。氷河に覆われなかった地域も小さな草とコケしか生えないツンドラ気候に変わったのだ。ドイツ北部辺りに住んでいた祖先たちは、獲物となる動物たちと一緒に、比較的温暖だったフランス南西部などに移動してきた。
 ボケアペル博士は、この遺跡の分布密度のほか、植生、現在の狩猟採集民の調査から明らかになった「どういう土地ならどれだけの人口を養えるか」といったデータを組み合わせ、地域ごとに、どのような人口変遷があったかをシミュレーションした。すると、4~3 万年前には、最大で 1 3000 人だったフランス南西部・南部、スペイン北部の人口は、2 万年前には、2 4000 人に倍増していたのである。
 そして、ちょうどこの人口が増加したときに、壁画やさまざまな文化が生まれたのだ。
 ボケアペル博士は、次のように主張する。
「人類史でいつ芸術が出現したかということは、あまり重要ではありません。アフリカで生まれた祖先たちは、いつでも芸術や文化、技術を生み出す能力をもっていました。南アフリカのブロンボス洞窟で暮らしていた人でも同じです。重要なことは、コミュニケーションを取り合う集団の大きさでした。アキテーヌ地方やスペイン北部は気候変動によって人口が集中しました。つまり集団のサイズが実質的に大きくなったのと同じです。人数が多くなれば、より多くの発明が出てきます。このような条件があったからこそ、芸術が生まれた可能性が大きいのです。ヨーロッパのほかの地域で絵画や芸術が出てくるのが遅れたのは、偶然、集団ネットワークが大きくなるタイミングが遅れたからなのです」
 前章の最後でも登場する、ロンドン自然史博物館のクリストファー・ストリンガー博士も、集団のサイズが新しい芸術や文化を生む重要な要素だと考える 1 人だ。ストリンガー博士といえば、ホモ・サピエンスがアフリカをふるさとにもち、出アフリカによって全世界に広がったという、いまや常識となった「アフリカ起源説」をいち早く唱えた古人類学者だ。新たな発見や研究成果が登場するたび、次々とこれまでの常識が破られていく古人類学・考古学の世界で、確かな見識をもとに一般の人にも分かりやすい言葉で解説してくれる。今回のシリーズでも、取材をはじめた当初から、私たちに的確な意見やアドバイスを幾度となく授けてくれた。
 ストリンガー博士は、ホモ・サピエンスが出アフリカを果たしたのち、寒い場所、暑い場所、あらゆる環境に適応できたのは、大きな集団ネットワークを築いていたからだという。そして、次のように説明してくれた。
「集団のネットワークが大きくなると、問題に取り組む人数が増え、新しいアイデアが次々に出やすくなります。それがもっとも発揮されるのは、氷期のような気候変動に見舞われた場合です。仲間が集まって『さあ、どうしようか』を頭をひねっても、そうそういいアイデアが出るものではありません。それよりも大勢でアイデアを出し合い、片っ端から試してみればいいのです。たまたま、うまくいく方法があれば、みんなでそれを真似する。つまりは数が勝負なのです。必要なのは、既存の知識をどれだけ知っているかではなく、新しいことにチャレンジできる絶対的な人数なのです」
 さらにストリンガー博士は、新しいアイデアを生み出すだけでなく、それを伝えていくためにも大きな集団が必要だという。
「現在は、いいアイデアが生まれれば、それは失われることなく受け継がれていきます。文字や視覚情報などいろいろな方法で保存され、次の世代に伝達されるからです。過去はそうではなく、いいアイデアは出てきては、多くの場合失われていました。新しい文化や技術というものが定着するには、アイデアがどう保存されるかが問題です。それには情報が広まる安定した大きなネットワークが必要です。それがあれば、アイデアが存続するチャンスは大きいのです」
 ~~。
 博士はいう。
「高度な技術は高度な頭脳から生まれ、単純な技術は単純な頭脳から生まれるというのは誤解です。高度な技術は大きな人口で生まれ、維持されていくのです」
 4 万年前以降のヨーロッパの場合、人々のネットワークは私たちが想像する以上に大きく広がっていたことが、出土する遺物から窺える。~~。
 さて、フランスのアキテーヌ地方に話を戻そう。
 レ・ゼジイという小さな町に、国立フランス先史博物館がある。ここで私たちは、ずっとこの目で見たかった物に出会い、それを撮影することができた。学芸員が大事そうにもってきた棒のような物体。長さ 15 センチほど。折れた状態で見つかったので、実際はこの倍はあったと推定されている。素材はシカの骨。そう、これこそ現存しているなかでは、世界最古の投擲具なのだ。時代は、1 9000 年~ 1 7000 年前のものとされている。棒の端には、槍を固定するためのフックがちゃんとついている。

 

 (PP. 199-200)
 アメリカ、ワシントン DC の中心部、ナショナルモールに面する国立自然史博物館。~~。
 骨の主は、ネアンデルタール人。イラク、シャニダール遺跡から発掘されたシャニダール三号と名付けられた男性だ。全身の骨格が、ほぼ完全な形で残っている。骨をよく見ると、左の肋骨[ろっこつ]、ちょうど脇腹に当たる部分に、傷があることが分かる。何か鋭利なもので切られたような凹みだ。男性は、この傷がもとで命を落としたとされている。
 ~~。
 2009 年、衝撃的な論文が発表された。シャニダール三号の傷は、ホモ・サピエンスが投擲具で投げた槍でつけられたというのだ。~~。

 

 (P. 202)
 翌 2010 年、もうひとつ、私たちホモ・サピエンスとネアンデルタール人との関係を示唆する重要な発表があった。
 ドイツのマックス・プランク研究所などの国際共同チームが、クロアチアなどで見つかったネアンデルタール人の骨からゲノム(全遺伝情報)を解読し、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、ニューギニアの 5 人の現代人と比較した。すると、アフリカ以外の人はゲノム配列の 1~4 % が、ネアンデルタール人と共通していることが分かったのだ。これはつまり、私たちが出アフリカをした後、おそらくレバントのどこかで、異種交配が起こったことを意味している。ヨーロッパで起こったとしたら、中国やニューギニアでネアンデルタール人の遺伝子が見つかる説明がつかないからだ。6~5 万年前のレバント(ひょっとしたらスフールやカフゼーの時代かもしれない)で、少量のネアンデルタール人の DNA がホモ・サピエンスの集団に含まれ、それがヨーロッパやアジア、さらにオセアニアへと拡散していったのかもしれない。
 このような注目すべき新説が次々と発表されているものの、私たちとネアンデルタール人がどのような関係であったのかは、まだまだはっきりとしたことは分からない。いったん、ひとつの説にまとまりかけても、新たな発見でガラリと覆ることも繰り返されるだろう。

 

 (PP. 203-204)
 アメリカ、ミズーリ州のワシントン大学のエリック・トリンカウス博士は、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスの集団のなかに吸収されたと主張する。
「彼らは互いを認識しあい、受け入れ、交配を繰り返したのだと思います。そしてすでに少数派だったネアンデルタール人の遺伝子は、人口を増やしつづけるホモ・サピエンスのなかに飲み込まれていったのです」
 トリンカウス博士は、1998 年にポルトガルで、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の両方の特徴を兼ね備えているとする、子どもの化石を発見している。先に紹介したマックス・プランク研究所の比較ゲノム研究の結果も、博士の主張を後押ししているように思えるが、まだはっきり結論づけられてはいない。
 一方、ロンドン自然史博物館のクリストファー・ストリンガー博士は、両者の接触の方法や関係が 1 種類だと考えること自体が間違いだと、私たちに力説してくれた。
「相当前から主張しているのですが、気候変動で滅びたとか、混血して私たちが吸収したとか、あるいは殺りくしたとかという単純なモデルから脱する必要があります。ネアンデルタール人は、ジブラルタルからシベリアまで分布していることを考えると、絶滅の理由はひとつではなく、複数の原因が複雑に織り交ざっていたとみるべきです」
 地域ごとに原因が違うということか。
「イギリスやシベリアにいた集団は、気候変動で自然消滅したかもしれません。しかし、フランス南西部やイベリア半島にいた集団は、私たちの祖先と何らかの関係をもっていたはずです。ご存じのとおり、当時のヨーロッパの環境は厳しく、ヒトも動物も限られた場所に追いやられ、密集して暮らしていました。ふたつの人類は互いの存在を認識していたはずです。ときには交配もあったでしょう。しかし、基本は同じ環境資源をめぐった競争関係にあったと思います」

The End of Takechan
ホモ・サピエンス と ネアンデルタール人 の邂逅

 

『人体六〇〇万年史』〔上〕 〔ダニエル・E・リーバーマン/著〕
  第 6  きわめて文化的な種

文化的進化の進化

 (PP. 223-224)
 私たちと旧人類とを隔てる生物学的形質がなんであれ、それは決定的に重要なものであったに違いない。後期旧石器時代を導くことになった数々の革新は、おそらく徐々に生じたのだろうが、ひとたび後期旧石器時代が確立すると、その様式は現生人類が急速に地球全体に広まるのを助け、結果として私たちのいとこたる旧人類は、現生人類があらわれた先々で、あらわれたとたんに消滅してしまった。この入れ替えの詳細については、いまもって不明な部分が多い。現生人類は確実にネアンデルタール人などの旧人類と交流していたはずだし、ときには交配さえしていたはずだが、なぜ彼らでなく私たちが生き残ったのかは誰にもわからない(51)。仮説としてなら、いろいろある。まず一つは、私たちが単純に数で彼らを上回ったとするものだ。私たちのほうが子を幼くして乳離れさせられたのかもしれないし、死亡率を低く抑えられたのかもしれない。出生率や死亡率の違いが非常にわずかであっても、人口密度の低い集団で暮らしていかねばならない狩猟採集民にとっては、そのわずかな差がとても大きな、ことによると壊滅的な効果をもたらしかねない。計算をしてみればわかるが、もし現生人類とネアンデルタール人の両方が同一の地域に暮らしていて、しかしネアンデルタール人の死亡率のほうが現生人類よりわずか一パーセントだけ高かったとすれば、ネアンデルタール人はわずか三〇世代、つまり一〇〇〇年にも満たない期間で絶滅してしまうのである(52)。後期旧石器時代の人々が中期旧石器時代の人々より長生きしていたという証拠から(53)、ネアンデルタール人の絶滅のペースはさらに速かったとも考えられる。また、ほかのありふれた仮説としては、現生人類が勝ち残れたのは現生人類のほうが旧人類よりも協力することに長けていたからだとか、狩猟採集で得る資源の幅が広く、魚や鳥など、よりさまざまなものを食べていたからだとか、より大きく効率的な社会ネットワークを持っていたからだといったものがある(54)。考古学者は今後もこれらの仮説や別のアイデアを検討していくだろうが、とりあえず一つの総合的な結論は明確である。すなわち、現生人類の行動には何かしら有利な点があったに違いない、ということだ。循環論の古典的な一例として、私たちは現生人類特有の行動がなんだったのであれ、とにかくそれを「行動の現代性」と定義しているのである(55)

 

51.  旧人類との交配はおそらくアフリカでも起こっていたと思われる。以下を参照。Hammer, M. F., et al. (2011). Genetic evidence for archaic admixture in Africa. Proceedings of the National Academy of Sciences USA 108: 15123‑28; Harvarti, K., et al. (2011). The Later Stone Age calvaria from Iwo Eleru, Nigeria: Morphology and chronology. PlosOne 6: e24024.
52.  もし氷河時代のヨーロッパの狩猟採集民が、昨今の亜北極の狩猟採集民のように 1 人当たり 100 平方キロメートルのテリトリーで生活していたとすると、たとえば当時のイタリアの地域に暮らしていた人の数は最大 3000 人ということになる。以下を参照。Zubrow, E. (1989). The demographic modeling of Neanderthal extinction. In The Human Revolution, ed. P. Mellars and C. B. Stringer. Edinburgh: Edinburgh University Press, 212‑31.
53.  Caspari, R., and S. H. Lee (2004). Older age becomes common late in human evolution. Proceedings of the National Academy of Sciences USA 101(30): 10895‑900.
54.  これらの仮説の概要については以下を参照。Stringer, C. (2012). Lone Survivor: How We Came to Be the Only Humans on Earth. New York: Times Books; Klein, R. G., and B. Edgar (2002). The Dawn of Human Culture. New York: Wiley(『 5 万年前に人類に何が起きたか?――意識のビッグバン』鈴木淑美訳、新書館、2004 年)。あわせて、以下も参考になるだろう。Kuhn, S. L., and M. C. Stiner (2006). What's a mother to do? The division of labor among Neandertals and modern humans in Eurasia. Current Anthropology 47: 953‑81.
55.  Shea, J. J. (2011). Stone tool analysis and human origins research: Some advice from Uncle Screwtape. Evolutionary Anthropology 20: 48‑53.

 


 

『出アフリカ記 人類の起源』  C. ストリンガー R. マッキー /著〕

 

  2 イーストサイド物語
 (P. 26)
 ~~。今日、大型類人猿はたった四種しか残っておらず(ゴリラ、オランウータン、チンパンジー、それにボノボ)、この類人猿の血統の中の新グループ、すなわちホミニド(ホモ・サピエンス、それに私たちの先行者のホモ・エレクトス、ネアンデルタール人、その他の種がこれに属する)の出現だけが、この衰退傾向に抵抗してきたのである。

 

 (PP. 47-48)
 ~~。類人猿とアウストラロピテクスの胸郭は、体の下の方になるにつれて大きくなるピラミッド状の形をしている。大きな胃と何重にも巻いた腸とを収容するためだ。ホモ・エレクトスは、ビヤ樽形の胸郭を持った最初のホミニドであった。彼らの胸郭は、肺を収容するために外に広がり、次いで小腸の納まる上のあたりで退縮しているのだ。同様に、脳の拡大の明らかな兆候も見て取ることができる。

 

 (PP. 49-50)
 ホモ・サピエンスの祖先に当たるこの雑食性ホミニドの最初の化石が、アフリカではなくインドネシアのジャワ島で発見されたことは、面白い巡り合わせだ。オランダの医師ウジェーヌ・デュボワは、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルが進化について書いた著作に心を動かされ、「ミッシング・リンク」の化石を探すために、一八八七年にオランダ領東インドに職を得て赴任した。そしてソロ川の岸辺のトリニールで、(欠失していた)眼窩[がんか]の上の頑丈な隆起を備えた奇妙な形の低平な頭蓋冠と、人類であることが確実な大腿骨を発見したのだ。デュボワはこの種を「ピテカントロプス・エレクトス(直立猿人)」と名づけた。現在、私たちはこれをホモ・エレクトスと言っているが、デュボワの化石はまだしばしばジャワ原人という名前で呼ばれている。その後、エレクトスの化石は中国でも発見され(北京原人)、さらにクービ・フォラやオルドゥヴァイ峡谷のようなアフリカの諸遺跡でも見つかった。どの化石も、頭蓋壁は厚く、脳頭蓋は後頭部、頂部、両側部が骨稜[こつりょう]で強化されていた(特にアジア産化石ではそれが著しい)。~~。
 エレクトスの体幹部は、一九八四年までほとんど見つからなかった。だがこの年、現代古生物学上の最も目覚ましい発見の一つがなされ、体幹部化石が不在の状況を劇的な形で変えたのである。この年までにリチャード・リーキーに率いられた調査隊は、辺境のケニア北部にある、トゥルカナ湖西岸の化石の見つかりそうな地域で調査を始めていた。~~。
 骨は子供のもので、その骨格はこれまで発見されたホモ・エレクトスの中で最も完全であった。リーキーは、私たち人類の過去の特異な姿、一五〇万年前に生きていたヒトの一瞬を発掘したのである。~~。

  3 ぞっとさせられるような連中
 (PP. 106-108)
 もちろんアウト・オブ・アフリカ説の主唱者の誰も、クロマニヨン人によってネアンデルタール人が暴力的に置き換えられたに違いない、と言ったことはまったくない。クリス・ストリンガーが一九八四年に主張していたことだが、「アフリカでの進化で起こった事件がクロマニヨン人の出現につながったのかもしれない。そしてヨーロッパへ彼らが進入した結果、ネアンデルタール人は絶滅にいたったのだと思われる。ただし一夜にしてではない。数千年という両者の共存期間の後に、である」。ストリンガーの主張は、両者は数千年間も平和的に共存しただろうというもので、その後にネアンデルタール人は死に絶えたが、それは彼らがクロマニヨン人と経済的に競争できなかったからだ、ということに尽きた(この考えを次章でさらに詳しく探究する)。この重要な点は無視された。が、その後もウォルポフが自分に不都合な細事に注意を示すことは一切なく、それは彼流の修辞学の一部なのであった。
 ローリング・ブレイスはどうだったかと言えば、彼の特徴であるいかにも論争好みの文体で(すなわち多少の外国人嫌いとはっきりしたあてこすりを交じえたうえで、嘲りをあからさまにして)、一九九四年に次のように書いた。「ストリンガーの基本的スタンスは、過去何十年にもわたって古人類学の大きな特徴となってきた「大先祖返り」と呼ばれるものの輝かしい例である。リチャード・オーウェン卿の(反ダーウィニズム)精神は、彼の死後優に一世紀をへた現在も、大英博物館(原文のママ)で健在だと言えるだろう。」(実際はクリス・ストリンガーは、自然史博物館に勤務している。)
 彼流の騒々しいこけおどしは虚しいものだった。このときまでにアウト・オブ・アフリカ説はすでに強力な影響力を持つまでになっていたので、イギリス同様に強大な影響力を持つワシントン国立自然史博物館は、一九九一年に大衆的圧力を受けて、やむなく人類進化の展示の一部を閉鎖する羽目に陥った。理由は、展示の一部が最近の考え方である、現生人類が新しい時代のアフリカに起源を有するとする説を反映していないから、というものだ。~~。

  4 時と機会
 (PP. 146-147)
 ネアンデルタール人集団は、多年にわたり厳しい冬を重ねるうちに飢餓に瀕するようになっただろう、とキングドンは推定する。周辺に他のホミニドがいなかったとすれば、彼らの浮き沈みも緩和されただろう。だがネアンデルタール人よりも強化された社会的柔軟性と組織性で援護された現生人類が出現すると、その後に急激すぎる彼らの後退と絶滅が起こった。クロマニヨン人は、当時入手できたヤギ、シカなどの動物を独り占めにしただろう。それでネアンデルタール人は、厳しい時代を生き抜く食の大黒柱である肉を得られない状態に陥ったに違いない。飢餓は不可避となっただろう。直接にしろ間接にしろ、彼らに終末をもたらしたものこそ、私たち現生人類の到来であった。

 

 (P. 149)
 結局はこの人類種は、キングドンが指摘したように、その社会的な集団構成が小さかったために絶滅したのだろう。そして時代が厳しくなると、食物が不足する厳しい気候変化の間に、ホモ・サピエンスは彼らよりも進んだ組織化を後ろ盾にして、彼らよりも大きな集団の間で知識を共有し合うことができた。私たち現生人類は、大きな大隊を持っていたにすぎなかったのだ。

  5 全人類の母?
 (PP. 152-153)
 ~~。遺伝子に還元されると、「ヒトは……西アフリカの地理的に限られた領域に暮らすローランドゴリラよりも、ずっと多様性が乏しい」と、メアリエレン・ルヴォロ教授に率いられるハーバード大学の人類学者のチームは、一九九四年に『アメリカ科学アカデミー紀要』に載せた論文で述べている。さらにこの現象は、ホモ・サピエンスとゴリラ・ゴリラ・ゴリラ(ローランドゴリラというのは架空の分類名である)に限られるわけでもない。チンパンジーとオランウータンのミトコンドリア DNA を調べたハーバード大学チームの研究は、この二種の類人猿もホモ・サピエンスよりかなり多様性に富むことを明らかにしたのである。

 

 (PP. 154-155)
私たち現生人類はみんなかなり若い種の一員であり、私たちが持つ遺伝子はこの秘密を暴露してくれるのである。
 大騒ぎを引き起こしたのは、遺伝子のこの相対的な均質性そのものではなく、現生人類の緊密なミトコンドリア DNA 家系を生み出した共通の祖先が二〇万年前頃に生きていたに違いないという、その後に導かれた計算の結果なのである。もちろんこの年代は、ホモ・サピエンスが一〇万年前頃に出アフリカを始める直前に、ホモ・サピエンスとしての独自の進化が始まったという考えと、完璧に符合する。言い換えれば、ミトコンドリア DNA 資料はほんのわずかしか突然変異していないので、二〇万年前頃に生きていたホモ・サピエンスのある小集団が、今日の現代人みんなの源流であったに違いない、したがって全人類の泉であったはずだ、ということだ。同じように遺伝子の研究は、現生人類が現状に達するまでに、旧世界の各地でゆっくりと進化しながら一〇〇万年間を過ごしたという見方も退けるのである。そう判断するには、私たちの持つ DNA はあまりにも画一的であり、したがってそれが現実的な考え方とはとうてい言えないのだ。ルヴォロ教授のチームが指摘するように、研究の結果、現生人類の共通祖先は「(ホモ・エレクトスがアフリカから出たと考えられる年代の)一〇〇万年前とはそうとうに異なる二二万二〇〇〇年前に」置かれている。「このデータは、……したがって現生人類出現の多地域進化説を支持しない」のである。じつはルヴォロ教授は、科学雑誌で要求される普通の、潤いのない学術的散文という制約がない場合には、いっそうきっぱりした調子でそれを言明している。「一〇〇万年前というはるかな大昔に現代人の共通の祖先がいたなんて考えは、遺伝子の情報のどこからも絶対に支持できません」と彼女は断定する。「じつは私があの論文を一九九三年後半に書いた時点では、ホモ・エレクトスがアフリカから出たのは今から一〇〇万年前と仮定していました。ところがどうです。今ではその年代は、ジャワのホモ・エレクトス化石で新たに得られた数字によると、少なくとも一八〇万年前に遡るっていうじゃありませんか。ですから私たちの研究は、多地域進化説をいっそう強く否定することになります。」その一方でハーバード大学チームの成果は、アウト・オブ・アフリカ説と完璧に合致する。「これは、人間はみんなごくごく似通っていることを皆さん方に示す比較の方法なんです。これが似通っているということは、一つの事実に読み替えられます。つまり私たちの共通祖先の始まりは、新しかったということです」と、ルヴォロ教授は付け加える。

 

 (P. 162)
~~、「現在のあらゆるヒトは、アフリカ人の集団の子孫である」とウィルソンと彼のチームは述べた。
 以上の知見の概要を述べたバークリー・チームの論文は、一九八七年一月に科学誌『ネイチャー』に発表され、世界中を駆け抜ける大ニュースになった。この研究が意味することをウィルソンが極端な形で主張したのだから当然である。ウィルソンの主張によるとミトコンドリアの系統樹は、ホモ・サピエンスの小グループばかりでなく、一人の女性、全人種の起源であるたった一人の母親にまでたどれるというのだ。~~。

 

 (PP. 166-167)
 しかしウィルソンの調査に対する別の異義申し立ては、そう簡単には無視できなかった。そこでバークリー・チームは、方法的にいくつかの変更を加え、自分たちの研究をもう一度やり直してみた。そして白血病が原因でウィルソンが亡くなる直前の一九九一年、チームは二本の重要な論文を(『アメリカ科学アカデミー紀要』誌に、そして二本目を『サイエンス』誌に)発表した。~~。彼らの研究成果は、またしてもヒトの誕生地を堅固に、そしてごく新しいアフリカに位置づける二本の枝を描くことになったのだ。「我々の研究は、我々の共通のミトコンドリア DNA 祖先が二〇万年前頃のアフリカにいたことの最強の裏づけを与えている。」彼らはそう宣言した。
 問題はこれで完全に一件落着になったと思われた。現生の集団には太古のミトコンドリア DNA が見られないので、私たち現生人類の祖先の起源がアフリカであり、混血をせずに別の人類系統の既存集団と完全に置き換わったに違いないことを、この研究は示した。これはクリス・ストリンガーとギュンター・ブロイアーのような科学者によって提出された最初の出アフリカ・モデルの基本にはなかった、極端な形の置換説だった。ストリンガーやブロイアーは、ある程度の、限定的な混血を認めていた。しかし遺伝子のデータには、その可能性を示す単純な兆候すらなかったのである。

  6 時の砂に残された足跡
 (PP. 211-213)
 アフリカに生まれ、世界に歩を進めようとしていた、よちよち歩きを始めたばかりのこのホミニド種にとって、厳しい時代は一回限りで終わったわけではなかった。地球は持続する気候の大混乱にがっちりと握り締められ、気候変動の範囲内の変化が地球の自動温度調節器を容赦なく押し下げた。その後、七万四〇〇〇年前には、この災難に加えて、スマトラ島のトバ山が、過去四億五〇〇〇万年のうちで最大規模の大爆発を起こした。この爆発の威力は、セント・ヘレンズ火山の爆発の四〇〇〇倍もあり、一〇〇〇立方キロメートルもの塵と灰を大気中に放出しただろう。この爆発は地球を何年も続く火山の冬に一気に突き落とした。夏の温度は摂氏一二度も下がった可能性がある。熱帯雨林は縮小し、砂漠は拡大し、東アジアでは長くなった冬のモンスーンが、塵の雲を内陸の砂漠から地球全体に吹き飛ばしただろう。これこそ、とイリノイ大学のスタンリー・アンブローズは指摘する。ホモ・サピエンスの人口崩壊の原因だったかもしれない、と。現生人類は暑いサバンナの太陽の下で進化したために、火山噴出物が地球を覆ったとき、絶滅寸前に陥り、寒い、薄暗い悲惨さの中でうずくまるしかなかった。アジアの現生人類先駆者たちと母なるアフリカとのつながりは、断ち切られた。このため、寒冷適応したネアンデルタール人は、次の三万年間、中東の真の住人となることができたのである。
 皮肉なことだが、この分断と環境圧のすべてが、このホミニドをちっぽけな参加者から地球の主人に変身させる決定的に重要な変化の刺激となったのかもしれない。寒冷化という試練が進むにつれ、進化を促す圧力は現生人類の脳と社会的行動を変化させる引き金を引き、現生人類は「分厚い金時計のようにコチコチと時を刻みながら」動物界のスターの地位へと向かった。科学者の中には、一〇万年前頃のクラシーズ、ボーダー洞窟、カタンダの各遺跡で、こうした変化に伴う新機軸の気配をすでに検出できている、と指摘する者もいる。これらの遺跡で彼らは、木と石器からできた複雑な組み合わせ道具の証拠と並んで、後期旧石器文化で長く続く赤いオーカー(顔料)の使用の痕跡を見つけていた。ただし一方にはこうした新機軸は、もっと後の絶滅に瀕した危機を大きく跳ね返した時期に近い、五万年前頃に出現したと考える研究者もいる。
 もちろん、出アフリカは一回だけだったわけではないし、アフリカから新天地へと旧石器時代のモーゼに率いられた初期狩猟採集民の意気揚々とした軍団がいたわけでもなかったことは明らかだ。そうではなく現生人類の出アフリカは、狩猟域を拡大させ、新しい分布域を奪いつつ、この大陸からゆっくりと浸み出ていく細い流れという形で起こったのだろう。ケンブリッジ大学のマルタ・ラールとロバート・フォーリーの考えでは、八万年前頃に「アフリカの角」から東方に広がった拡大の一つを復元できるという。その集団は、彼らが東アジアと東南アジアへ移動した際に分岐し、その地域の現代的な「人種」を構成した。五万年前頃に起こったその後の拡散は、北アフリカ、西アジア、そして私たちの古い友人であるクロマニヨン人の形態でヨーロッパに侵入していった、という。


 

歴史新書
『ホモ・サピエンスの誕生と拡散』 〔篠田謙一/監修〕

 

 18 現生人類ホモ・サピエンス アフリカから世界に
 (PP. 72-74)

 

20 世紀前半まではヨーロッパが人類誕生の地と考えられていた
 自分の顔をじっくり鏡で見てみましょう。我々、現生人類は大きくて丸い頭部、高い額、引っ込んだ眼窩[がんか]と平べったい顔など、かなり特徴的な顔つきをしています。横にチンパンジーの写真を置くとかなりわかりやすくなります。
 ~~。
 こうした特徴をもつホモ・サピエンスが地球上に誕生したのはいつ、そしてどこなのでしょぅか。20 世紀の前半までは、ヨーロッパで比較的最近に誕生したと考えられてきました。1868 年にフランス南西部のクロマニョン岩陰遺跡から、人骨と洗練された石器、骨製の針などが見つかりました。そのことがきっかけで、近代文明のみならず、現生人類そのものもヨーロッパから始まったと考える学者が多かったのです。
 一方、アフリカはヨーロッパやアジアに比べると後進的であるという当時の先入観がありました。そのため、人類誕生の地だとは考えられていませんでした。
 ~~。
■ ミトコンドリア・イブとアフリカ誕生説
 現在では、ホモ・サピエンスはアフリカで約 20 万年前に誕生したと考えられています。とくに現生人類のほとんどすべての人が、20 万年前にアフリカに住んでいたある一人の女性の子孫であるという「ミトコンドリア・イブ」説が 1987 年に発表されました。そのことで、人類のアフリカ発祥説は強く支持されるようになります。
 この研究では、世界中のヒトのミトコンドリア DNA 中の変異(ハプロタイプ)を比較しました。DNA は親から子どもに伝わっていくとき、一定の割合で変異を起こすため、時間が経過するほどハプロタイプの種類が多くなり、DNA に個人差が生まれてきます。つまり、ある集団同士を比較したときグループ内での個人差が大きいほど、変異がたくさん起こったということになります。変異の数が多い集団ほど、成立が古く、長い歴史をもつということになります。
 ハプロタイプの種類から樹形図をつくっていくと、最も変異の数が多く、最も起源が古いと考えられるのは、サハラ以南のアフリカ人集団でした。つまり DNA のデータは、人類は世界のどこよりもアフリカに一番長く住んでいる、要するにアフリカで誕生した可能性が高いということを示唆しているのです。
 発掘調査でも、最古のホモ・サピエンスとされる化石がエチオピアで発見されています。年代測定の結果、この化石はおよそ 19 万年前のもので、遺伝学的な証拠を示すアフリカ誕生説を強く後押ししています。
 また、少し時代は新しくなりますが、約 16 万年前の現生人類と考えられる大人二人と子どもの頭骨などがエチオピアで発見されています。こちらの化石では、額がやや高いという現生人類の特徴とともに、眉の骨が突き出ているなど原始的な特徴も見られました。そのため、ホモ・サピエンスに進化する直前のグループではないか、とも考えられています。

 24 膨大な数の DNA を解析 自身のルーツも判明
 (PP. 92-93)

 

 ホモ・サピエンスはアフリカで誕生し、世界中へと広がりました。~~。
 1980 年代後半からはミトコンドリア DNA に加え、男性から息子へと受け継がれる Y 染色体の DNA も解析されるようになり、さらに解析の幅が広がりました。さらに、2003 年にはついにヒトゲノムの解析も完了。ミトコンドリア DNA Y 染色体も、両親の一方からしか継承されませんが、核のゲノムは双方から継承されるため、一人分のゲノム情報からでもさまざまな結論を導くことができます。とくに、サンプルの少ない古代人骨の解析は、今後、飛躍的に進むことが期待されます。
 さらに、ナショナルジオグラフィック協会や IBM らは共同研究「ジェノグラフィック・プロジェクト」を実施。2010 年までに 10 万人以上の DNA 分析に成功しました。この他にも地域集団のゲノムを調べるプロジェクトがいくつも行われ、より詳細な人類拡散のシナリオが描き出されるようになってきたのです。
 「出アフリカ」、つまり人類がアフリカから広い世界へと飛び出した時期は、約 6 万年前とされます。ミトコンドリア DNA やゲノムの解析から、出アフリカを成し遂げたのはわずか数百人から数千人の集団だったと推定されています。出アフリカは人類が成し遂げた挑戦のなかでもとくに重要なものでした。~~。


 

『ネアンデルタール人は私たちと交配した』 〔スヴァンテ・ペーボ/著〕
 著者
 スヴァンテ・ペーボ Svante Pääbo

 生物学者。ドイツ・ライプツィヒのマックス・プランク進化人類学研究所の進化遺伝学部門ディレクター。
  1  よみがえるネアンデルタール人
 (P. 11)
 ~~。わたしたちが調べていたのはミトコンドリア DNA (mtDNA) で、これは卵細胞によって母親から子どもに伝えられる(精子のミトコンドリアは受精時に失われる)。細胞内の小器官であるミトコンドリアは、それぞれ mtDNA のコピーを数個持ち(細胞全体では数千個になる)、その情報に従ってエネルギー生産という仕事をこなしている。

 

 (P. 34)
 今でもわたしはそれを、自分が書いた中で最良の論文のひとつと見なしている。その論文ではまずネアンデルタール人の mtDNA 配列を再構築するまでの苦しい道のりについて語り、それが本物だという根拠を示した。さらに、その配列が現代人の mtDNA のバリエーションの範囲に収まらないので、ネアンデルタール人は現代人に mtDNA を寄与していない、というわたしたちの結論について詳しく述べた。この結論は、アラン・ウィルソンやマーク・ストーンキングらが提唱したアフリカ単一起源説と矛盾しない。論文にはこう書いた。「このネアンデルタール人の mtDNA 配列は、現代人が独立した種として最近アフリカで誕生し、ネアンデルタール人とほとんど、あるいはまったく交配することなく取って代わった、というシナリオを裏づける」

 

 (P. 35)
 論文は査読され、わずかな修正が求められたものの、掲載が認められた。一流科学誌の常で、『セル』誌の編集者は、7 11 日号(註2)が刊行されるまで、その内容を口外しないことを求めた。~~。
2.  M. Krings et al., “Neandertal DNA sequences and the origin of modern humans,” Cell 90, 19‑30 (1997).
  2  ミイラの DNA からすべてがはじまった
 (P. 53)
 1984 11 月、ゲルでの配列決定に取り組んでいる最中に、『ネイチャー』に掲載された論文は、わたしのしていることと関係があるものだった。その論文の著者は、カリフォルニア大学バークレー校のラッセル・ヒグチと、アフリカ単一起源説の提唱者で、著名な進化生物学者、アラン・ウィルソンで、かつてアフリカ南部にいて、およそ 100 年前に絶滅したシマウマの亜種、クアッガの剝製の筋肉から DNA を抽出し、そのクローニングに成功したという。~~。

  3  古代の遺伝子に人生を賭ける
 (PP. 62-63)
 アランの関心事のひとつは、人類の起源だった。ごく最近、彼はマーク・ストーンキングとレベッカ・キャンと共に『ネイチャー』に論文を発表し、論争を巻き起こした。それは世界中の人( 147 人)から採取した mtDNA の配列を、制限酵素(特定の塩基配列を切断する酵素)で切断するという面倒な方法で比較し、人類の mtDNA 20 万年から 10 万年前にアフリカにいたひとりの祖先(ミトコンドリア・イヴ)に遡ることを指摘したのだ(註3)。~~。
3.  R. L. Cann, Mark Stoneking, and A. C. Wilson, “Mitochondrial DNA and human evolution,” Nature 325, 31‑36 (1987).
  7  最高の新天地
 (P. 114)
 人生には思いがけないことが起きるものだ。1997 年、最初のネアンデルタール人の mtDNA の塩基配列を発表して間もないある朝、秘書から、年配の教授から電話があり、わたしに会いたいと言っていた、と聞かされた。今後の計画について相談したいことがあるそうだ。~~。
 訪ねてきた人物は、マックス・プランク協会(略称 MPS )を代表して来た、と言った。MPS は基礎研究を支援するドイツの団体である。これまでいくつもの研究を支援してきたが、当時は、その 7 年前に統合された旧東ドイツで、国際レベルの研究機関の立ち上げを進めていた。~~。

  8  アフリカ発祥か、多地域進化か
 (P. 128)
 わたしが研究所の設立準備に追われ、マティアス・クリングスが新たに得たネアンデルタール人の骨から mtDNA を回収しようとしている時に、科学コミュニティは、わたしたちがネアンデル谷の基準標本から導いた結果の検証を始めた。あの結果は、「多地域進化説」を信奉し、ネアンデルタール人はヨーロッパ人の祖先のひとつだと考える人々には不評だった。だが、そう怒る必要はなかったはずだ。と言うのも、1997 年の論文でわたしたちは、ネアンデルタール人の mtDNA はどの現代人の mtDNA とも明らかに異なっているが、ネアンデルタール人が現代のヨーロッパ人に遺伝子 ―― 核ゲノムの遺伝子 ―― を提供した可能性はあると、慎重に指摘しておいたからだ。

  18  ネアンデルタール人は私たちの中に生きている
 (P. 259)
 2009 5 月、5 人の現代人ゲノムの配列解析を始めた。それらの新鮮な DNA は、ネアンデルタール人の DNA とは違って、バクテリア DNA の混入や化学的なダメージがなく、それぞれから、ネアンデルタール人の 5 倍もの DNA 配列が得られた。1 2 年前、ライプツィヒでこうした作業を行うことは考えられなかったが、454 社やイルミナの技術により、今ではわたしたちのような小さなグループでも、複数の完全なヒトゲノムをほんの数週間で配列決定できるようになったのだ。

  21  革命的な論文を発表
 (PP. 299-300)
 大規模な論文ではよくあることだが、内容の大半は印刷された誌面には収められず、その雑誌のウェブサイトに「電子補助資料」として掲載される。かなりのボリュームとなるが、大部分は、専門家向けの専門的な内容となっている。通常、電子補助資料の著者は、論文と同様にひとまとめに主著者からずらずらと掲げられる。だが、わたしはそれを変えることにした。電子補助資料のそれぞれのセクションで著者を分け、興味を持つ読者の質問にその著者が対応することを提案したのだ。このかたちにすれば、どの実験や分析をだれが行ったのかがより明確になる。また、それぞれが担当するセクションの内容に責任をもつことになり、賞賛であれ非難であれ ―― 少なくともその一部は ―― 担当者に向けられるだろう。その内容をさらに精錬するために、コンソーシアムのメンバーから研究に直接関わっていない人を選び、校正を任せた。
 これらの方策はすべてプラスに働いた。メンバーはそれぞれ担当する部分を着々と提出するようになり、最終的に 19 章、174 ページの補助資料が揃った。おかげでわたしの仕事は、これらの部分的修正と、雑誌に掲載される主論文の執筆だけとなった。この作業では精力的なデヴィッド・ライシュが大いに助けてくれた。メールで何度もやり取りし、何度も書き直した末に、2010 2 月の初めに、エド・グリーンがすべてを『サイエンス』に提出した。
 3 1 日、3 人のレビュアー(査読者)からコメントが届き、3 週間後、4 人目のレビュアーのコメントも戻ってきた。往々にして、レビュアーは論文のアラをいくつも見つけ、批判してくるものだが、今回、そのような指摘はほとんどなかった。2 年の歳月を費やして、互いの仕事をチェックしあったので、大方のアラはすでに自分たちで見つけていたからだ。それでも、細かな修正は必要で、編集者との間で何度もやり取りした。そしてついに 2010 5 7 日、論文は、174 ページの電子補助資料付きで発表された(註1)。ある古生物学者はそれを「科学論文というより本に近い」と評した。

 

 (PP. 305-306)
 ネアンデルタール・ゲノムに興味を持った人は大勢いたが ―― 中でも最も意外だったのは、合衆国の原理主義のキリスト教徒たちだった。論文発表の数か月後、わたしはカリフォルニア大学バークレー校の理論進化ゲノミクスセンターで、博士課程の学生、ニコラス・J・マッツケに会った。あの論文が、創造説支持者の間に激しい論争を巻き起こしているとニコラスは言った。そして彼は、創造説支持者には 2 タイプあることを教えてくれた。一方は、「若い地球説」支持者で、地球、天国、あらゆる生物は、1 万年前から 5700 年前の間に、神によって創造されたと信じている。彼らはネアンデルタール人を「完全な人間」と見なす傾向にあり、ネアンデルタール人はバベルの塔の崩壊によって「全地に散らされ」、その後絶滅した「人種」だ、と言うこともある。したがって、ネアンデルタール人と現生人類が混血したというわたしたちの発見は、彼らの信念に矛盾しなかった。
 もう一方の「古い地球説」支持者は、地球が太古の昔から存在することを認めているが、自然による進化は認めていない。古い地球説の主要な団体はヒュー・ロス率いる「 Reasons To Believe(信仰の根拠)」で、現生人類は 5 万年ほど前に特別に創られた存在だが、ネアンデルタール人は人間ではなく動物だと信じている。したがって、古い地球説支持者は、ネアンデルタール人と現生人類が混血したという発見を好まなかった。~~。

 

 (P. 307)
 大いに興味をひいたもうひとつの疑問は、アフリカの外の人だけがネアンデルタール人の DNA を保有することが何を意味するか、である。重ねて言うが、ネアンデルタール人は明らかに評判が悪い。『ジュンヌ・アフリック』(Jeune Afrique) は、アフリカのフランス語圏で出版されている、政治や文化の問題をあつかう週刊誌だが、わたしたちの研究結果を伝える記事を次のように結んだ。「だが、ひとつ確かなのは……ネアンデルタール人の外見が類人猿に似ていることを思えば、サハラ以南のアフリカ人が白人より遅れているといまだに考えている人々は、真実を何もわかっていないということだ(註2)
1.  R. E. Green et al., “A draft sequence of the Neandertal genome,” Science 328, 710‑722 (2010).
2.  わたしの翻訳による。

 

超自然の媒介者
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