The End of Takechan
冷酷無惨を装う智恵

 

 列王紀上
 〔三・一-四・三四〕 ソロモンの知恵と栄華
 (P. 333)
 ハ、三・一六-二八 ソロモンの裁判。この有名な物語はソロモンがギベオンにおいて神から約束された審判の知恵の実例として記されたもの。またこれは古代のヘブル人の知恵の何たるかを示すものである。それは哲学的思考力でもなく、また道徳的能力でもない。彼らの知恵は賢明な判別力であり、実際的処世術であり、なぞを解く力である。人の行為の隠れた動機や秘密を直感洞察し、機知をもって巧みに見破る力である。ソロモンの知恵はそのようなものであった。一六-二二 一つ家に住んでいた甲乙二人の遊女が共に子を産んだが、乙の遊女はその子をあやまって殺したので、その死んだ子をひそかに甲の遊女の子と取りかえ、生きている子が自分の子であるといって争った。そこで二人はソロモン王の前に出て互に生きている子が自分の子であり、死んだ子は自分のものでないと言い争って、その判決を求めた。二三-二八 王は遊女の訴えを聞いて、それでは刀をもってその生きている子を二つに切り、二人で分けるように命じた。すると甲の遊女はその生きている子を殺さないで乙の遊女に与えてくださいと言ったので、王はその甲の遊女こそ生きている子の母であると言って、それを甲の遊女に与えた。二八【神の知恵】神から賜った知恵(→エズ七・二五、ダニ四・一八)。

 

 

 旧約聖書「列王記上」
3
 (PP. 532-533)
 16 そのころ、遊女が二人王のもとに来て、その前に立った。17 一人はこう言った。「王様、よろしくお願いします。わたしはこの人と同じ家に住んでいて、その家で、この人のいるところでお産をしました。18 三日後に、この人もお産をしました。わたしたちは一緒に家にいて、ほかにだれもいず、わたしたちは二人きりでした。19 ある晩のこと、この人は寝ているときに赤ん坊に寄りかかったため、この人の赤ん坊が死んでしまいました。20 そこで夜中に起きて、わたしの眠っている間にわたしの赤ん坊を取って自分のふところに寝かせ、死んだ子をわたしのふところに寝かせたのです。21 わたしが朝起きて自分の子に乳をふくませようとしたところ、子供は死んでいるではありませんか。その朝子供をよく見ますと、わたしの産んだ子ではありませんでした。」 22 もう一人の女が言った。「いいえ、生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子です。」さきの女は言った。「いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子です。」
 二人は王の前で言い争った。23 王は言った。「『生きているのがわたしの子で、死んだのはあなたの子だ』と一人が言えば、もう一人は、『いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子だ』と言う。」 24 そして王は、「剣を持って来るように」と命じた。王の前に剣が持って来られると、25 王は命じた。「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ。」 26 生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言った。しかし、もう一人の女は、「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言った。27 王はそれに答えて宣言した。「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」
 28 王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。

 

 

 「列王記上」 注 解
 三・一-二八 ソロモンの知恵
 (PP. 592-593)
 ソロモンの裁判物語(三・一六-二八)。この物語をもってソロモンの知恵がいかなるものであったかを具体的に示そうとする。この裁判物語はソロモンとは関係なく民間伝承の中で語られていたものであろう。大岡越前守の裁判のような物語があちこちの文化圏にある。物語は、㋑王の前における二人の遊女の論争(一六-二二節)、㋺王による論争の解決(二三-二七節)、㋩結び(二八節)、からなっている。㋑では、一緒に住んでいた遊女がそれぞれ子供を産んで育てていたが、一人の子供が死んで、その母が死んだ子を同居する遊女の子供と取り替えたかどうかというのが争点として示される。㋺では、ソロモンが剣を持ってきて生きている子供を二つに裂いて二人に母に分けるように命じ、真の母を見つけたことが言われる。㋩は、ソロモンが願って(九節)、主が約束なさったことが(一二節)、実現したことを言う。《遊女》(一六節)は、ここでは神殿娼婦ではなく、ラハブ(ヨシュ二・一-六)のような女宿主で、売春もした。《王のもとに来て》は、当時だれでも王のもとに行って裁いてもらえたことを前提としている(サム下一四・一-一一、一五・一-六参照)。《ほかにだれもいず》(一八節)は、第三者の目撃証人がいなかったことを言う。ここに問題解決の難しさがある。この問題をいかに解決するかにソロモンの知恵が示される。ソロモンは生きている子を二つに裂くように命じて、公平さを装い、真の母親を見いだす。ソロモンの知恵は、この巧妙さだけではなく、正義を守ることにも現れている。古代イスラエルの知恵の概念は物事を巧みに処理することのみならず、正義を守り、実現することも含むからである。《神の知恵》(二八節)は、「大いなる知恵」、「最高の知恵」という意味であろう。ヘブライ語では最上級を表現するため「神」ということがある。


 苛烈な時代環境を生き延びようとしたイスラエルの支配者たる王様だから「剣を持ってこい」が活きるのであって、江戸の名奉行たる大岡越前守忠相 [おおおかえちぜんのかみただすけ] が同じように「刀を持ていっ!」などとやらかしても、それが智略策謀であるとすぐに見抜かれかねず、見抜かれなかった日にゃ、魂消た家来に「越前守さまご乱心!」とばかりに取り押さえられかねないのである。
 そこで、日本人の弱点である、人情味あふれる、名裁きが語り継がれることになる。

The End of Takechan
享保の名奉行と『大岡政談』

 江戸幕府八代将軍徳川吉宗といえば、「享保 [きょうほう] の改革」といえば「目安箱」、といえば、お奉行様、といえば、南町奉行大岡忠相の伝説。

 

 (P. 2769, d)
めやす‐ばこ【目安箱】
一七二一年(享保六)将軍徳川吉宗が庶民の要求・不満などの投書を受けるために評定所の門前に置かせた箱。享保の改革の一環。小石川養生所の設置、町火消の創設などの成果があった。直訴(じきそ)箱。訴状箱。

 

 (P. 359, a)
おおおか‐さばき【大岡裁き】
(大岡忠相(ただすけ)の裁断が公正であったことから) 公正で人情味のある裁定・判定。

 

おおおか‐ただすけ【大岡忠相】
江戸中期の町奉行。能登守のち越前守。将軍吉宗に用いられて享保の改革の実務を担当。大岡政談の主人公となる。寺社奉行時代の「大岡忠相日記」は、吉宗の頃の幕閣運営の実態を示す好史料。(1677~1751)

 

おおおか‐せいだん【大岡政談】
名判官大岡忠相の裁判に仮託した小説・講談・脚本などをいう。



有朋堂文庫
『大岡政談』 全
塚本哲三/編輯
大正七年十一月十八日 有朋堂書店/發行
實母繼母御詮議の事 (P. 675)

〔「大岡政談」の本文は上の資料にあり、それに解説を附した下記の資料から、引用させていただく。〕

 

東洋文庫 439

○ 実母 [じつぼ]・継母 [けいぼ] の御詮議の事

 (P. 301)
 ある家の主[あるじ]我が妻の罪なきを離縁なし、かねて言い交わせし女をすぐに後妻に娶[めと]れり。しかるに離縁せし前妻懐妊し、親里にて女子を産[う]み養育なしけるに、この娘十歳ばかりに成りし処、生まれ付ききりょうよく発明にて、今はいずかたへ奉公に出すとも一かど親の為に成るべき程なりしかば、かの家の後妻その娘を羨ましく思い、我が方へ引き取らんと掛け合いしより、ついに先妻・後妻の争いとなりて、奉行所へ訴え出でける。その時大岡越前守殿へ両方より己[おのれ]が実の子なりと申し立て、これと言う証拠もなければ、先妻・後妻互いにいよいよ言い争い果てしなきゆえ、奉行もこれを捌[さば]き兼ねて見えけるが、大岡殿両人の女に向かわれ、「さようならば致し方なし、その子を中へ入れ置きて双方より左右の手を把[と]って引き合うべし。勝ちし方へその子を取らすべし」とあり。「畏[かしこま]りぬ」と娘を両人の中へ入れ、双方より娘の手を取り互いに力を出し、白洲[しらす]において引き合いければ、中なる娘左右の手の痛みに堪え兼ね、思わずワッと泣き出だしければ、一人の女はハッと驚き手を放しけるが、引き勝ちし女は、「ソリャこそ我が子に違いなし」と申しけるを、越前守殿、「ヤレ待て女」と声を掛けられ、「おのれこそ偽り者なり。誠の母は中なる娘の痛みを悲しみ、思わず引き負けて手を放したり。その方は元他人なれば、その子の痛みを思わず、ただ引き勝つ事にのみ心を用いしならん」とにらめられしかば、かの女はハッとひれふしけるゆえ、「この女は偽り者なり」とて、縄を掛け拷問[ごうもん]せられしに、ついに白状なし、疑いも無き先妻の娘なりとて下されける。これ天地自然の情を酌[く]まれし裁許と言いつべし。

 (PP. 302-304)
   解 説
 この話はすでに『隠秘録』巻四、『板倉大岡両君政要録』巻下においても、大岡越前守の事績として載っている。その出典は『棠陰比事[とういんひじ]』第八話に、前漢の黄覇[こうは]という地方官の裁きとして載っているものである。
 ところで新井白石『折たく柴の記』巻下には、正徳五年(一七一五)二人の男が一人の幼児の父親といって争った事件が記載されている。幕府の評定所の審理においては、幼児の態度で実の父は明白にも拘わらず、担当の町奉行中山出雲守[いずものかみ]時春は、一方の者が承伏しないといって判断を下さなかった。
「総解説」でも触れておいたが、正徳期の幕府の司法機関は著しく弛緩[しかん]しており、判決の遅延・不公正は甚だしかったようである。大岡越前守の名が後世高まった理由の一には、正徳期と対蹠[たいしょ]的に、享保期の司法界の改革の実があがったことが考えられる。
 右の事件なども、大岡裁きならばたちどころに判決しえたと思われるのに、空しく逡巡[しゅんじゅん]していたその模様を伝える『折たく柴の記』の記事を掲げよう。この事件は「世に聞えし」と記してあるから、あるいは世人はその審理のもたつきを諷して、『棠陰比事』を翻案して、この大岡裁きを作り出したのかもしれない。

〔棠陰比事物語 巻一〕
   (8)黄覇叱姒[くわうはあによめをいさふ]
 前漢の黄覇と云し人、頴川[えいせん]といふ所に太守たりし時に、福人あり。兄弟おなじ家にすミけり。
 兄弟の女房、ともにおなじくくわいにんせり。あによめの子ハ、たいないにて、そこねてしゝたり。此子のししたる事、ふかくかくしていふ事なし。弟よめおのこをうめり。あによめこれをうばひとりて、おのれが子とす。これをろんずる事三年に及べり。すでに黄覇にうつたえけり。
 黄覇此子を人にいだかせて、庭中にをいてふたりの女房にうばハせけり。両方ともにうばひけるが、あによめハたけくいさみかゝりて、子のてあしもきるばかりにうばひける。弟よめハその子のてあしのそんぜん事をかなしむと見えて、そのこゝろばへはなハだいたハれり。
 黄覇のいはく、「なんぢあによめ、家財をむさぼりて、此子をぬすまんとほつす。又子のてあしをそこなハん事をかなしむハ、にハかにつくり出せる心にあらず。此事あきらかなり」とのたまひて、あによめをとがに落しける。

〔折たく柴の記 巻下〕
 去年(正徳五年=一七一五)の春より世に聞えし勾引[こういん]人の事、沙汰[さた]の次第聞えたり。これは水道町といふ所に薬種あきなふものの(名をば清兵衛と云)、勢州の産にて幼き兄弟のもの二人を召つかふに(兄は太郎兵衛といひ、弟は藤兵衛といふ)、其弟なるもの忽にうせぬ。去年の春、其兄なるもの、乞食の家にその弟のあるを見つけて、主に告しほどに、やがて乞食の許[もと]にゆきて、其幼きものをとり返すに、山田といひし浪人の(名は政右衛門)薬種商ふものの許に来て、「彼乞食の家にありしものは、甲州の住人道三といふものの子なるを(名は七助)、今より六年の前、我に託[あづけ]たりしかば、ある医師のめしつかふものとなせしかど、不肖のもの也し故に、乞食にはあたへし也。いかでこれをばとりぬらむ」といふより事起りて訴論とはなりたり。
 かの甲州の道三をも、勢州のものの父也といふをも評定所に召問ふに、(中略)勢州のものの父と申すは藤堂が所領のものなるを、召しけるによりて和泉守が家従して送来れり。かくて評定所に召集て、まづ道三といふものを召して、かの幼者[いとけなきもの]に「汝が父にやある」と問ひしに、「見しりさぶらはぬ」と申すを、かの道三「父を見しらぬ事やある」といひて、その頭を打しかばにげさりぬ。次に勢州のものを召し出しけるに、幼きものこれを見て、声をあげてなきて、そのかたはらに居よりて、「これこそ我父にて侍れ」と申し、また父を送来りしものどもをも皆々見しりて、其父送り来りし事をも謝し申せしかど、道三も山田も承伏せざれば、「いかにとも事決すべからず」とぞしるし出したりけり。

 

〔次の資料では、『板倉大岡両君政要録』に、異なる記述が見られている。〕

 


大岡越前裁かず

加太こうじ [かた・こうじ]
平松義郎 [ひらまつ・よしろう]
NHK 佐久間宏

 

 (PP. 54-55)
  今もなおトップ・スターの大岡越前守

 

「昔江戸で夫に死なれた女が、乳飲子を里子にやって奉公に出ました。幾年かの後、里子を返してもらはうとすると、先方はあづかったおぼえがないといって返しません。困って町奉行へ訴え出ました。時の町奉行は名高い大岡越前守[ゑちぜんのかみ]で、一人の子どもに二人の実母はないはずといって、いろいろ調べますが、どちらも実母だといひはります。越前はじっと考えましたが、
『其の子を二人の真中に置ひて、両方から子どもの手を取って引合へ。勝った方へ其の子を渡す』
といひました。二人の女は、
『かしこまりました』
と両方から引合ひましたが、子どもがいたがって、わっと泣出しますと、実母の方は驚いて手を放しました。里親の方は『それ見よ』といはぬばかりに、子どもを引きよせますと、越前守は声をかけて、
『これ女、其の手を放せ。泣くもかまはず力まかせに引くとは、情を知らぬ不届者。手を放した女が実母にきまった』
と申し渡しましたので、里親は恐れ入ったといひます。」(尋常小学校『国語読本』巻八「第十一章 大岡さばき」より 仮名遣いは原文のまま)
江戸の町奉行、大岡越前守忠相[ただすけ]は、江戸時代いや日本史の全時代を通じて最も有名な裁判官である。数々の難事件や珍事件の解決にあたってこの人が下した機知に富み、人情味にあふれた名判決ぶりは「大岡裁き」の名で知られ、それらを集大成した「大岡政談」は昔から講談、落語、芝居で繰り返し演じられてきた。その一部は冒頭にも紹介したように戦前の国語教科書にも収録され、その神のごとき知恵と超人的な活躍は現在も映画やテレビで毎週のように見ることができる。水戸黄門や遠山の金さんと並んで、大岡越前は日本人の代表的なヒーローなのである。では、この国民的英雄、大岡越前忠相とはいったいいかなる人物だったのだろうか。そして有名な「大岡裁き」の真相とは……。

 

 (PP. 59-61)
  「大岡政談」のルーツはソロモン王

 

~~。同じように大岡越前守の人情味あふれる判決として知られる落語の「三方一両損」(畳屋が三両の金を落とし、建具屋がそれを拾った。二人とも正直者の頑固者なので、返すいらないで大騒ぎ、訴えを聞いた越前守が一両を足して四両とし、仲よく二両ずつ分け与えたので、落とし主、拾い手、それに一両を出した越前守の三人が各一両ずつ損となる)――この話も、実は大岡忠相が町奉行に就任するより二十年以上前の元禄時代に書かれた、有名な井原西鶴の『本朝桜陰比事[ほんちょうおういんひじ]』という本にすでに記されている。
では、この稿の冒頭に紹介した「実母継母の子争い」の場合はどうであろうか。「ハナ、ハト、マメ」時代の『国語読本』に大岡越前守の名判決として収録されているこの一件も、江戸末期の安永年間に出版された『板倉大岡両君政要録』、別名『板岡政談』では、さきほどの京都所司代板倉重宗の裁きとして記されているのである。つまり「石地蔵」の場合と同じように、越前守よりも百年も前の出来事なのである。ところが中国に『棠陰比事[とういんひじ]』という裁判物語を集めた漢時代の書籍があり、その中にある前漢時代(紀元前二〇二~紀元後八年)の頴川[えいせん]の太守黄覇[こうは]の裁いた「黄覇叱姒」は次のような物語である。
「其の郡に富豪があり兄弟が同居していた。兄弟の妻は同時に懐妊したが、姒(兄嫁)の方は流産した。しかしそれを秘して生まれた娣(弟の嫁)の子を奪い、わが子であると主張、論争すること三年に及んだ。訴えを聞いた黄覇は庭にその子を置いて二人の女に奪い合いをさせた。姒は無理に奪おうとしたが、娣は子が傷つくのを恐れ悲しんだ。ここに至って黄覇は姒を叱り、その罪を糾弾した。」
これはまさしく「実母継母争い」の原型である。しかし、このルーツをさらにたどっていくと、はるかシルクロードを越えて『旧約聖書』にいたる。それは「列王紀」第三章、ソロモン王(紀元前十世紀)の事績として記されているものである。

 

〔次の Web 資料では、PDF ファイルの 2 ページ目に、以下のように記されている。〕

http://ci.nii.ac.jp/els/110004780960.pdf?id=ART0007519113&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1450944325&cp=
藤沢毅
 (P. 34)

 

   主殺直助権兵衛事 并 実母継母論之事
 ~~。其時、忠相は二人の女に申付給ふは、
~~。
(内閣文庫所蔵『隠秘録』巻四所収)

The End of Takechan
ソロモンの知恵 VS. 大岡裁き

 次は、偉い人は、名前を「講談」の人情話 [にんじょうばなし] に使われただけで、「落第だ」とまでいわれてしまうそんなお話です。

 

 (PP. 51-59)
 6 大岡越前守とソロモン王

 

 大岡越前守忠相[ただすけ]という人を知っていますよね。
 そうです。江戸時代中期の名裁判官でした。大岡越前守が江戸南町奉行、遠山の金さん、こと遠山金四郎が江戸北町奉行で、ふたりは同時代ではありませんが、江戸時代の「お奉行さま」の代表格であります。大岡越前守の名裁判官ぶりを伝える物語は非常に多く、実録本、講談、歌舞伎狂言、ひいては大衆文学、映画、テレビなどの好題材になっています。
 しかし、越前守の名裁判も、学者の研究によると実際に彼自身が担当したものは少なく、ほとんどは他の奉行が担当したものか、中国の裁判記録の文献からの翻案らしいのです。偉い人は得ですね。他人の手柄を自分のものにしてくれるのですから……。わたしなんかは、いくらりっぱなことを言っても、たいていは無視されてしまいます。いや、ぼやかない、ぼやかない……。血圧が上がるよ!
 まあ、ともかく、大岡越前守は他人の手柄まで自分のものにしている(してくれている)のですから、ひとつその手柄なるものにケチをつけてやりたくなりました。彼の名裁判官ぶりに、わたしが「?」をつけてみます。そうして、わたし自身の溜飲[りゅういん]を下げることにします。溜飲を下げると、きっと血圧も下がるでしょうから……。
 さて、ここで取り上げるのは、例の大岡裁きの、
 ――実母継母の子ども争い――
 です。欲深いまま母がいまして、先妻の子を実子と言い張って争いになりました。いや、そんなふうに言えば、その子が先妻の子であって後妻の子でないことがわかっていることになります。実際はわからないのです。先妻の子か後妻の子か、いずれも自分の子だと主張して、大岡越前守に裁いてくださいと訴えてきたのです。
 そこで、越前守が調査します。でも、わかりません。
「越前がいろいろ詮議[せんぎ]いたせしが、そのほうどもの言い分、いずれが正しくいずれが偽りなりと決めがたし。かかるうえは、子どもを中に置きて、ふたりが両方から手を引き合え。勝ったほうに子どもを渡すことといたそう」
 越前守はそう言っています。乱暴な話です。子どもの綱引きだなんて、偉いお奉行さまの考えることでしょうか……。
 でも、しかたありません。お奉行の命令だから、ふたりの女は子どもの綱引きを始めます。子どもは泣きます。当然ですよね。力まかせに両方から引っ張られて、痛いに決まっています。
 ひとりの女が、それで手を離しました。こちらが先妻です。
 そこで、後妻のほうが子どもを引き寄せました。彼女は勝ったのですよ。「よかった」と思っています。
 ところが、越前守が言うのです。
「待て、偽り者! まことの親であれば、痛がって泣く子どもの不愍さに、思わず手を離すであろうに……。そのほうはにせものであるに違いない」
 これが越前守の最終判決です。彼はみごとに真相を探り当てたのです。名裁判官! そういう評判になっています。
 けれども、わたしは納得しません。どうしてもケチをつけたくなります。
 だって、そうでしょうよ。汚いではありませんか……。「勝ったほうに子どもを渡すことといたそう」と約束しておきながら、その約束をひっくり返してしまったのです。それじゃあペテンです。
 でも、どちらが本物の母か、それを明らかにするためには、そのようなペテンも必要であった。そう言って、大岡越前守を弁護する人がいます。
 では、本当に母親は明らかになりましたか……? わたしは怪しいと思います。
 越前守は、本当の母親であればわが子かわいさに手を離すに違いない――といった仮説を立てていました。その仮説にしたがって、いずれが手を離すかを見ようとしたのです。そして、先妻が手を離したので、先妻が実母だと判断したわけです。
 問題は、仮説にあります。
 わたしが後妻なら、越前守にこう言って食ってかかります。
「待ってください、お奉行さま。お奉行さまは本当の母親の気持ちがわかっておられないのです。本当の母であれば、わが子が泣こうがわめこうが、他人にわが子を渡したくないので必死になって子どもを引き寄せます。ひょっとすれば、片腕が抜けるかもしれません。でも、わが子を他人に取られたくない一心で、手が抜けてもわが子を引き寄せます。しかし、にせものの母であれば、片腕のなくなった子どもは、いくら遺産がついていても、欲しくありません。だから、手を離します。手を離したほうがにせものなんです」
 読者はどう思われますか……? わたしが後妻に語らせたこの言葉も、なかなか説得力があるでしょう。越前守の仮説と甲乙つけがたいと思います。
 わたしは、だから、越前守は名裁判官だと思いません。本当の名裁判官であれば、
「わからないものはわからない」
 と、判断を保留にするはずです。いや、人間を裁くことの怖ろしさを知っている人が名裁判官です。その意味で、わたしは、越前守は落第だと思います。
     §
『旧約聖書』の「列王記・上」に、この大岡裁きに似た話があります。
 裁く人は、古代イスラエル王国第三代の王のソロモンです。ソロモンといえば、優れた知恵の持ち主とされている人物です。
 ある日、ソロモン王のところに、ふたりの遊女がひとりの赤ん坊を連れてきて、「これはわたくしの子どもです」と訴えます。~~。
 それをソロモン王が裁きます。
 ~~。
「この子を生かしたまま、先の女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である」
 これがソロモン王の判決です。わたしは、これは名判決だと思います。
 ソロモン王は、別段、どちらの女がその赤ん坊の母親であるかを明らかにしようとは思っていません。彼は、人間の知恵の限界を知っています。人間の知恵でもっては、物事の真相を見抜くことができないことを、ソモロン王はよく知っているのです。わたしはそう思います。
 そこで、王は、赤ん坊を二つに分けることにしました。乱暴なようですが、案外これがいい解決法かもしれませんね。
 そうすると、今度は、問題のほうが変わってきます。Aは、「赤ん坊を殺さずに、Bに与えてくれ」と願い出ました。Bは、「殺して半分ずつにしてくれ」と申し出たのです。このように主張が変わると、裁判官は判決が下せます。Bは、結局は、生きた赤ん坊をいらないと言っているのです。それなら、Aに赤ん坊をあげればいいのです。
 そこで、ソロモン王は、Aに赤ん坊を与えて、Aを赤ん坊の母親と認定したのです。
 でも、それだと、大岡裁きと同じようなもので、ソロモン王は赤ん坊を二つに裂くというペテンをやったのではないか……と言われる人もおられるかもしれません。でも、それは違います。ソロモン王はペテンにかけたのではありません。彼は実際に半分ずつにするつもりでいたのです。
 ところが、それに対して、AとBが訴えの内容を変更したのです。
 Aは……赤ん坊を殺さないでくれ。
 Bは……赤ん坊を殺してくれ。
 と、訴えを変更しました。訴えの内容が変われば、判決を変えることができます。ふたりの主張をもとにした判決を下せるのです。そして、ソロモン王は、そのように名判決を下したのです。
 やっぱり、大岡越前守よりソロモン王のほうが頭がいいですね。わたしは、ソロモン王のほうに軍配をあげますが、読者はどう思われますか……?

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